2002年(平成14年)9月10日号

No.191

銀座一丁目新聞

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競馬徒然草(22)

−歌になった馬− 

 競馬の大衆化がいわれるようになったのは、いつ頃からだろうか。ハイセイコーの登場からだという説がある。それが妥当かどうかはともかく、ハイセイコーが人気を盛り上げたのは確かである。歌にもなった。30年近くも前のことで、知らない人も多いだろう。まず、当時のハイセイコーについて触れてみたい。
 ハイセイコーが公営(地方競馬)の大井から中央競馬入りしたのは、昭和48年(1973)の春である。レベルの高い中央競馬へ、地方から敢えて転籍してくる馬は少ない。それが鳴り物入りでやってきた。というのも、大井時代の戦績は6戦全勝。しかも、2着馬につけた差は最小で7馬身、最大16馬身(6戦の平均は約9馬身)。他馬を子ども扱いにしていた。中央で走らせたいと思ったのは、関係者だけではなく、ファンの後押しもあっただろう。中央入りしたハイセイコーは、弥生賞、スプリングS、皐月賞と3連勝。評判通りの強さを見せた。「怪物」という言葉が生まれた。
 そして迎えた4戦目がNHK杯。東京競馬場の入場者は、前年を6万人も上回る16万9000人のレコード。ハイセイコーの人気のほどがうかがわれる。この人気の秘密には、評判の馬を見たいということのほかに、とかく軽視されがちな地方出身馬を応援したいという、大衆心理が強かったようだ。そのNHK杯はもちろん圧倒的な1番人気。単勝の支持率は83%を超えた。だが、レースは初めて経験する厳しいものだった。4〜5番手の好位置をキープしていたが、4コーナーで内に包まれ、直線コースでも前が開かず、進路が阻まれた。態勢を立て直して懸命に追う。勝ちはしたが、2着カネイコマとは頭差だった。あわや敗退を思わせる場面もあり、前評判ほどの強さを発揮しなかった。それでもファンの人気は揺るがない。そのあたりが、大衆人気というものの不思議なところだ。そして次の皐月賞も勝ったが、ダービーは3着に終わった。
 ハイセイコーはその後の大レースを勝てず、有馬記念2着を最後に引退した。最後まで1番人気だった。ところで、これで終わらないのがハイセイコー人気。引退を惜しむ『さらばハイセイコー』が歌になった。歌手は、主戦騎手だった増沢末夫騎手(現調教師)。昭和50年(1975)、レコードはポリドールから発売された。歌は茶の間に流れ、カラオケにも登場して大ヒットした。
 馬が歌われたのはこれが最初かというと、実は、その5年前に、『走れ走れコータロー』が出ている。こちらは実在の活躍馬でなく、コータローという物語上の馬を題材にしている。レコードがビクターから発売され、その年(昭和45年)のベストテン6位に入っている。それからすれば、その頃にはすでに競馬の大衆化は始まっていたともいえるだろう。
 長い間、競馬は変にギャンブル視され、表向きは「市民権」を得ていない趣があった。それが晴れて「市民権」を得るには、長い歳月があった。そのようなことなど、今の若いファンは知らないだろう。何事も、大衆化の歴史というものは、そのようなものかもしれない。 

(宇曾裕三)

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