陸士の同期生(59期)上野貞芳君が父親の伝記「御垣守から防人軍師へ 陸軍少将 上野貞臣の生涯」をまとめた。残された父親の日記をもとに苦学力行の青少年時代から師団参謀長として沖縄戦で死闘を繰り広げて自決するまでを描いている。随所に父を思う気持ちが出ており、ほろりとさせられる。
はじめに沖縄戦最後の作戦会議の模様が出てくる。作戦にはその人の知力、胆力、人柄がもろに出るといわれる。上野参謀長の面目躍如たるものがある。昭和20年5月22日夜、その席上で62師団参謀長上野貞臣大佐(陸士30期)はつぎのように述べた。「師団は形而上下にわたり(将兵も武器弾薬もの意味)戦力殆ど尽き、新たに後図を策する余力はない。そのうえ首里洞窟には後送至難な幾千の重症者が充満していて後送する余力もなく、軍需品後送の輸送機関もない。師団としてはこれらの戦友を見捨てて知念や喜屋武方面に後退することは情として忍び得ない。師団は将兵の大部分が戦死した現戦線で最後まで戦いたい」
この発言を伝え聞いた第62師団将兵は「さすが我らが参謀長」と感動したという。結局、喜屋武半島撤退案に決まるのだが、この案が採用されたため、多数の住民が戦禍に巻き込まれることになる。上野君は「痛恨のきわみ」といい、父親の案が採用されていたら、「こんな悲惨な結果にならずにすんだのでは・・・」と嘆く。
この会議を主催者した32軍参謀、八原博通大佐(陸士35期・陸大恩賜)は特集文芸春秋「日本陸海軍の総決算」(昭和30年12月)の中で次のように記している。「このころ、首里で玉砕説も出たが、今後の作戦を研究した結果、残存五万の兵力を以って、地域的に持久抵抗しつつ南方10数キロの沖縄島西南端に後退し、与座、八重瀬の両高地を拠点とする陣地を占領し、戦闘する案が採用された」
上野貞臣参謀長は20年6月22日午前2時、き下将兵の殆どを失い、弾薬も尽き果て、喜屋武半島南端の島尻郡摩文仁村で藤岡武雄師団長(中将・23期)歩兵63旅団長、中島徳太郎中将(24期)とともに自決した。享年51歳。即日少将に昇進した。
息子の上野貞芳君は仙台幼年学校(44期)から陸士予科(59期)を経て本科に進んだ(昭和19年10月)。兵科は歩兵であった。昭和20年6月から神奈川県座間から長期演習の名目で長野県北佐久郡協和村に移った。当時の日記によれば、6月21日に重機関銃小隊訓練、22日に毒ガス訓練があった。私達59期生が沖縄玉砕を知ったのは6月26日の新聞であった。同じ中隊の同じ区隊にいながら、その日の上野君の気持ちをおしはかれなかった。誠に申し訳ないことをしたと思う。
父親の下級将校時代の記録は貴重である。少尉に任官した大正7年12月。年俸は880円とある。月に直すと、73円弱である。このころのサラリーマンの月給が3、40円というからかなり良い。大正10年5月に畑5反2畝23歩を1175円で購入している。軍人の才覚にしては珍しいと思う。
陸大を出ていないのに、参謀になれたことについて、3年8ヶ月の歩兵学校勤務時代、高度の作戦要務令、歩兵操典研究ができたからであろうと記している。本書を読む限り、勉強家であり、研究熱心にみうけられる。2年5ヶ月の近衛師団副官時代に「守衛勤務教育参考書」を編纂しているのはその現れである。また上司に恵まれたともいえよう。北支那方面軍第一軍の参謀付となった時の司令官は歩兵学校時代の校長であった香月清司中将(14期)である。第4独立守備隊参謀の時、活躍して認められた。その際の司令官は斉藤弥平太中将(19期)であった。斉藤司令官の第101師団長への転出に伴い、同師団参謀となる。ここでも功績をあげた。昭和15年1月には陸士の戦術教官になる(この間本科には54期、55期、56期が在学)。原則陸大出身者がつくポストだが、陸大選科並みの扱いになたようである。敗戦直後自決した親泊朝省大佐(37期)もガダルカナル戦のあと昭和18年3月に、陸士の戦術教官になっている。親泊大佐は陸大選科を出ている(昭和14年5月入学)。二人とも実戦経験を高く評価されたと見てよいであろう。
62師団の参謀長になるのは昭和18年6月である。ここで師団長の本郷善夫中将(24期)とともに新設師団つくりに苦労する。その兵員は予備役、後備役兵が主体で年齢も平均で30歳を越えていた。それを京漢作戦で要衝覇王城攻略の殊勲をたて、沖縄戦までに米軍と戦える精鋭な兵隊に仕立てたのである。その間の事情は第32軍参謀であった櫨山徹夫さん(47期、少佐)の「第62師団に学ぶ」に詳しい。櫨山さんが「この師団から数々の貴重な教訓を学び、指揮官の統率指導が大きな役割を果たしていることを教えられた」と述べているのは、防人軍師を父に持つ上野君にとっても嬉しい賛辞であろう。
(柳 路夫) |