2010年(平成22年)7月1日号

No.472

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追悼録(386)

小日向白郎さんの想い出


  佐野真一著「阿片王」(新潮文庫・平成22年2月15日4版)を読んでいたら”馬賊王”小日向白朗さんの名が出てきた。毎日新聞の社会部時代、時々お会いし、食事を共にした。同書によると「新潟県三条出身の小日向は、尚旭東という中国名を名乗り、奉天特務機関長の土肥原(註・賢二・陸士16期・後大将・奉天特務機関長は昭和6年8月1日から同7年1月25日まで勤める、昭和23年12月23日東京裁判で法務死)。の配下としてソ連極東軍の動向に関する情報を集める特殊任務についていたという。小日向は昭和25年25年ぶりに帰国し昭和57年最後の馬賊の死と報じられて81歳でこの世を去った」と記されている。

 私が小日向さんと会ったのは社会部のデスク時代である。だから昭和41年8月以降である。私が陸士出身(陸士59期)と聞いて興味を示されたのだと思う。いつも昼間、銀座のレストランで食事をしながら雑談した。彼の馬賊当時の話は実に面白かった。小柄だが体躯は堂々として身のこなしに隙はなかった。私の手元に彼から頂いた朽木寒三著「馬賊戦記」(番町書房・昭和41年6月20日発行)「続馬賊戦記」(昭和41年7月25日発行)の本がある。その本に大正5年、16歳の時、満蒙の冒険旅行を夢見て満州に赴き、さらに天津に行き、ここで坂西利八郎大佐(陸士2期)にあう。坂西大佐は陸軍きっての支那通と言われた。坂西大佐が少将になり北京大総統府の顧問になった(大正10年7月20日から大正13年9月13日)。ここで陸軍機関員となって内蒙、外蒙の調査を頼まれる。出発早々馬賊に捕まり、彼の”馬賊人生”が始まる。いくたの功績をあげて一方の旗頭となる。多くの馬賊と義兄弟の契りを結ぶ。その活躍は痛快きわまりない。小日向さんはこの本の序で「馬賊の任侠」について言う。「仁は人を助け、侠は命を捨てて人を助けること」。中学時代に覚えた「馬賊の歌」(作詞・宮島郁芳、作曲不詳)の一節を思い出した。『昨日は東今日は西 流れ流れし浮草の 果てしなき野に唯独り 月を仰いだ草枕』。

(柳 路夫)