1998年(平成10年)10月1日(旬刊)

No.53

銀座一丁目新聞

 

ホーム
茶説
映画紹介
個人美術館の旅
街角ウォッチング
スーパーウォッチング
ゴン太の日記帳
連載小説
海上の森
告知板
バックナンバー

連載小説

ヒマラヤの虹(23)

峰森友人 作

 十一月も最後の三十日、百合とトリジャはカトマンズでの打ち合わせから帰って来て、来週はまたポカラに下りてノルウエーから来る調査の人たちと一緒にタナフン郡に行くので忙しくなると話し合った後、寝ることにした。トリジャもいつもと変わることなく二階へ上がって行った。百合がタオルで顔や体を拭いた後寝袋を広げようとした時だった。突然、ウーというトリジャの呻き声が聞こえてきた。一瞬間を置いて、今度は壁をどんどん叩くような音がした。しばらく間を置いて、またどんどんと叩く。トリジャがそんなに騒々しくしたことはなかったので、不思議に思った百合が下から声をかけた。

 「トリジャ、何か音がしたけど、どうしたの?」

 するとまたウー、ウーと呻く声と共に、今までよりもっと激しく壁を叩く。壁と言っても下と同じで、丸太を半分に割った何本かの桟に板張りがしてあるだけである。不思議に思って、百合が部屋の隅の梯子を上がっていくと、暗がりの中トリジャが壁の前にもたれるように座り込んで、後頭部を壁というかその桟にがんがん打ちつけているではないか。走り寄ってトリジャの顔を見ると、恐ろしい形相をして、顔には幾筋も血のようなものが流れ落ちている。トリジャの頭を後ろから持つと、髪もねばねばした血のようなものがついている。百合がトリジャを抱きかかえようとしたら、トリジャがまた激しく頭を壁に打ちつけ始めた。

 「トリジャ、止めなさい。あなたは狂ったの?」

 百合が叫んだ。するとトリジャは、

 「私はもうおしまいだ、リリジャ、私はもう死ぬ!」

 とうなった。百合は必死にトリジャを押さえつけようとしたが、トリジャは本当に狂ったようになって、百合の力では押さえ切れない。その時トリジャが怒鳴った。

 「リリジャ、私を死なせて。私はもうすぐ本当に死ぬ。だから死なせて」

 そしてまた後ろ向きのまま、ものすごい勢いで頭を壁にぶちつけようとした。咄嗟に百合はトリジャの腕に噛み付いた。無我夢中で、どれだけ強く噛んだか分からない。ともかくその痛さ、というより、百合の真剣さにトリジャはびっくりしたのか、急にへなへなと床にうずくまってしまった。それで百合もやっとトリジャの腕に噛み付いていた口を放したのである。口の中はトリジャの腕についていた頭の血やかみついたために腕から出た血でねばっていた。その気味悪さから、百合は急に激しく吐き気を催した。胃から食べたものを吐くことはなかったが、百合の苦しむ姿にトリジャは、

「リリジャ、ごめんなさい、ごめんなさい」

 と泣きじゃくり始めた。百合も少し落ち着くと、外に出てたらいに水を取って自分の顔や手の血を拭き、きれいな水でタオルを濡らすとトリジャの顔や腕、それに髪を拭き、最後には傷口をきれいにしてメンソレータムを塗り込み、綿を当てて下着の裾を切った布で頭を縛った。

 気を落ち着かせるために、湯を沸かして二人で紅茶を飲むと、百合もトリジャもやっと自分を取り戻すことが出来た。トリジャに何か相当精神的なショックを受けることがあったに違いないと百合には察しがついた。トリジャがもう大丈夫なのを確認すると、百合は、何があったのか話してごらん、とトリジャに言った。

 トリジャは話し始めた。カトマンズに行っている間に、病院の知り合いに会いに行って、カトマンズの高校にいた先生がエイズで死んだことを聞かされた。百合と取材した病院だった。相手は死んだ先生とトリジャとの関係を知らなかったが、トリジャにはそれが別れた夫であることが話しからすぐ分かった。そのため夫婦生活をしている間に、自分も間違いなくエイズに感染してしまったと確信したのである。夫だった男は、ゴルカで高校を出ると、ボンベイへ働きに行った。そして苦労して、働きながらボンベイで大学を出て、ゴルカの先生になった。働きながらだったので、大学を終了するのにも時間がかかった。トリジャは保健婦の資格を取るための勉強をしていたので、それまでは何としても子供を持ちたくないと思っていた。夫も結婚してしばらくは理解を示したが、早く子供がほしいので避妊を止めることになった。ところがトリジャは密かにIUDを使い続けたのである。トリジャが自分に隠して避妊し続けているのを知った夫は離縁を言い渡した。夫自身それまでに既にエイズに感染していることをまったく知らなかったのだ。ボンベイにいる間に感染したのに違いない。

 

 とにかくドルフェルディ行きの予定だけは、わざわざノルウエーから調査に来ることもあって変えられないからと、トリジャには平静を保つように言った。頭の傷も髪で隠し、さらにずっとスカーフをつけさせた。賢い子だから、本当に人には何とも思われないように、兄にすら分からないように振る舞ったようだ。

 トリジャをゴルカに帰すと、私はトリジャのことを美穂子と相談するためにカトマンズへ向かった。カトマンズへ行く飛行機の中で、いろいろ考えていて、ハッと気が付いた。私が必死でトリジャを押さえようとして、彼女の腕に噛み付いたこと、そしてその血を飲み込んで気分が悪くなったこと。

 私は、エイズウイルスに感染しているかも知れないトリジャの血液を私の体の中に、たとえ大した量ではなくても、間違いなく取り込んだ。ああ私は何というおばかさん。夢中だったとは言え、とんでもないことをしてしまった。人に噛み付くなんて、そんなこと生まれてから一度もしたことがなかったのに。

 カトマンズで美穂子に会った時、百合は自分の事は一言も言わなかった。言ってもどうしようもない、彼女も困るだけだ。だから死ぬまで自分一人だけの秘密にしようと思った。もう結婚はしない。だから人に迷惑をかけないようにすればいいのだから、と。もし自分がエイズだと人に分かる時は、それは発症した後病院に入ってからのはずだから。

 「すみません。私はこんな体だのに、怖くなって抱いて欲しいって思ったりしました。とんでもないことです。人に迷惑をかけないというのなら、こんなことをしてはいけない。もしものことがあったら、ああ、私は佐竹さんに何というご迷惑をかけようとしていたのでしょう」

 百合は自分のこぶしをかむようにしてまた泣き出した。慶太は百合の背中に回した腕を引き寄せ、百合の頬を伝う涙を唇でぬぐった。百合はその時、

 「私にはもうそうしていただく資格はありません」

 と強い調子で言った。慶太は百合の言葉を否定するように、かまわずじっと百合を抱きしめ、頬を伝う涙を何度も口に吸い込んだ。百合はいっそう激しく体を震わせて泣いた。百合は腿を固く閉じて、傷ついた身なるが故になお尊厳を守ろうとする意志を表わした。

 長い時間が経過した。いつしか二人の体温は一つになって、お互いの体のどこが触れ合っているのかさえ感じ取ることが出来なくなっていた。やがて強固な意志のぶ厚い壁も破られて、百合の口から熱い息と意識から解き放なたれた声とが二人のまわりの小さな空間を満たした。

 一時がたって百合の体からあらゆる力が消え、静寂が戻っていた。突然慶太の目の前に緑のサリーに黒のカーデガンを着て稜線で風に吹かれている百合の姿が現れた。優しい笑みを浮かべて、透き通るような声をかけてきた。

 「佐竹さん。とうとうお別れの時が来ましたわ。お別れしたくない。でも私には他に道がないの・・・」

 百合はこう言うと、さっと稜線から飛び上がって、マチャプチャレの頂き目指して真っ青な空の中を飛んで行った。黒のカーデガンがまるで鳥の翼のように広がって、気流をとらえている。

 「百合!」

 慶太は叫ぼうとして、ハッと我に帰った。百合は自分の胸の中で静かに規則正しい息をもらしている。先程と何も変わっていない。慶太はまるで百合が飛び出せないようにするかのように、しっかりと抱き直した。合わせた胸からも、絡ませた足からも、巻き付けた腕からも百合の鼓動が伝わってきた。血液を飲み込んだって?どうしてそれがエイズ感染なのだ。慶太はまた力を込めて百合を抱き寄せた。

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。
www@hb-arts.co.jp