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小さな個人美術館の旅(49) 岡本太郎記念館 星 瑠璃子(エッセイスト) 青山通りを渡って、表参道から来た道をそのまま進むと根津美術館に突き当たる。左へ行けば青山墓地、右に進めばすぐに「骨董通り」だが、その少し手前の路地を入ったところに岡本太郎記念館はあった。周辺は有名ブランドのブティックなどがゆったりと立ち並ぶ閑静な通りで、きらびやかな表参道とは対照的なたたずまい。岡本太郎の生前のアトリエをそのままに残して今年5月に開館したばかりの記念館である。 門を入るとすぐ右手がそう広くはない庭になっていて、無造作に彫刻が置かれている。金ピカピカの「太陽」や、大小の角(つの)のいっぱい生えた梵鐘、いくつもの「坐ることを拒否する椅子」……。たちまちタロー・ワールドのとりこになった。椅子について、たしか彼はこんなふうに言っていた。
「いわゆるモダンフアニチュアの、いかにも坐ってちょうだいと、シナをつくっている、不潔さに腹がたつ。(椅子は)むしろ、精神的にも肉体的にも人間と対決し、抵抗を感じさせるのがいい。だから私のは、目をむいたり、キバを出して笑ったり、殆どが顔になっていて、坐る面がとび出している……」 その通りだった。赤、黄、青、とりどりの原色をつかった椅子は、大きく目をむいて、しかもそこからは自然の草が勢いよく生え出していた。見上げれば東京にはめずらしく抜けるように青い秋の空。 玄関を入った正面には大きな「縄文人」がお出迎えだ。縄文土器の魅力にとりつかれ、縄文文化論を書いたのは岡本太郎がはじめだが、この力強くも不思議な魅力あふれるブロンズ像につらつら見惚れていると、軽やかなスリッパの音がして、吹き抜けの階段を岡本敏子さんが下りてきた。有能な秘書から養女となり、当記念館の館長をつとめる人だ。思いきって短くカットしたシルバー・グレイの髪、しなやかな細身の身体。まるで女性版岡本太郎のように生き生きとチャーミングな敏子さんの案内で、もう一度庭に下りた。 二階の屋根より丈高い、文字通り見上げるばかりの芭蕉やしゅろの木の生い茂る庭は、画家がここに暮らしていた頃と少しも変わらぬたたずまいだそうで、「この庭では、なんでも異常に大きく育っちゃうんですよ。不思議ですねえ」と、楽しげに言う。 さっき見た梵鐘の角〈つの)は、敏子さんの説明でよくよく眺めると、ひとつひとつが空に向かって伸ばした人間の手になっていて、とんがったその角の手を叩くと、それぞれが違った音程で美しい音色を響かせて鳴った。「太郎さんも、よくここへ出てきては鳴らしていましたよ」。 玄関脇の応接間、その先のアトリエも生前の姿をそのままに残しているという。応接間のこれまた色とりどりのテーブル、椅子、コーヒーポット、灰皿、茶碗……。すべてが画家の手になる奇想天外なオブジェと見えながら、これもよくよく見ればじつに使い勝手よくデザインされていることがわかる。アトリエの二つのイーゼルの上には百号くらいの絵が二点。大きな刷毛を二つ、三つ重ねあわせて作った特製の「筆」が沢山あって、ほとんどの作品をこの刷毛で描いたらしい。普通の筆ではまだるっこしくてとても太郎さんのスピードにはついてゆけなかった。 「遠く離れて作品を眺め回していたかと思うと、バーッと走り寄って一気に加筆し、また後じさって眺め、また走り寄ってを日に数百回も繰り返していたでしょうか。時には庭先の彫刻の作業場へ走り出てガンガンやったり、ともかく一日中、駆けずり回っていましたよ」 と敏子さんはさもおかしそうに追憶する。
時にはアトリエの隅のピアノの前に坐ることもあったと聞いて、テレビでショパンの英雄ポロネーズを弾いた姿を思い出した。少しぐらいのミスタッチなんてぜんぜん意に介さない、それはものすごい情熱的なポロネーズだったなあ。 二階は二つの陳列室からなり、「太陽展II」と題された企画展が開催中だった。とっつきの部屋には、いまはとり壊されてしまってない(!)東京都庁の壁画「日の壁」の原画や石膏レリーフなどのエスキースが、廊下を渡ったもうひとつの部屋には版画が飾られている。一見、勢いにまかせて描きなぐったと見えるエスキースだが、その前に立つと、得体のしれぬ熱いかたまりが迫ってきてクラクラした。確かにこの芸術は「爆発」だ。「不協和昔を発するパトス」だ。 岡本太郎は1911年、東京青山生まれだ。父は一世を風靡した漫画家岡本一平、母は不世出の小説家岡本かの子。芸術家二人の特異な家庭で愛だけはいっぱいに受けて自由奔放に育ち、十八歳のとき、東京美術学校を半年で中退して両親とともに渡欧。父母の帰国後は一人でパリに往んでヨーロッパ文化とひたむきに向きあって十年。はじめセザンヌに、のちピカソに衝撃を受け、パリ大学を卒業して独自の作品の発表を始めるが第二次大戦勃発とともに帰国。一兵卒として中国の前線で過酷な五年間を送り、さらに一年の収容所生活から復員するや、花田清輝らと「夜の会」を組織して華々しい芸術活動を始めた。以後五十年。つねに第一線にあって老いを知らず、疾風怒濤のごとくその生涯を駆け抜けて八十四歳で没したその生涯はよく知られている。 没後三年目にあたる来年、1999年の秋には神奈川県川崎市に五千五百平米からなる岡本太郎美術館が開館される。そこには岡本太郎の絵画、彫刻など千八百点が寄贈された。そんなに作品が残っていたのは、愛好家によって自らの作品が私蔵されることを恐れた画家が生前に作品を決して手放さなかったからだという。 「記念館は、生身の岡本太郎に触れてもらうための空間なんです」と敏子さんが言う通り、記念館と美術館、二つの館が補いあって、岡本太郎の生きざまと作品を後世に伝えるという幸福な設計なのだ。「太郎さんもお幸せですねえ」と思わず声にだして言うと、 と敏子さんはキラキラ笑いながら答えた。 北海道から沖縄まで多い日は一日二百五十人も来るという来館者のメモ帳を繰ると、こんな言葉があった。「トイレが普通すぎる。便器の中に顔があってもいいじゃないか」。 常識や秩序に挑みつづけた芸術家の魂に触れて、少々調子が狂う人もいるみたいだ。
星瑠璃子(ほし・るりこ) このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。 www@hb-arts.co.jp |