2009年(平成21年)11月20日号

No.450

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追悼録(366)

森繁久弥さんのおばばへのいたわり

 手元の森繁久弥さんから頂いた書物がある。森繁杏子著「ばばの手紙」(限定版・平成2年6月14日発行)。杏子さんの本名は萬寿子、平成2年10月21日、死去している。私が森繁さんと知り合ったのは映画のアカデミー賞授賞式パーテーで同じテーブルで会ったのがきっかけであった。同席した妻が入会している「東アジアの古代文化を考える会」にも萬寿子さんが入っていたことがあり、妻と森繁さんの間で考古学や旅の話で盛り上がった。後日、森繁さん宅を訪問して萬寿子さんが旅先で集めた各国の人形、お面、楽器などを展示してある「ばばの博物館」を見せていただいた。森繁さんは「がらくたですよ」と言っていたが萬寿子さんにとっては貴重な宝物であったようだ。ともかく24,5年の間に南極、ガラバゴス、インカ、北極、サハラ、ニューギニア、コモド島、香港、ガボン共和国ラムバレー(シュヴァイツァー博士と会見)、エジブト、サファリ、チベット、イエメン、イスラエル、アルバニア、エクアドル、ヨセミテ、グランドキャニオン等を歴訪している。森繁さんは「このヒトは大胆と言おうか、好奇心旺盛と言うか、東京女子大では国文科を志望した女だが、40歳でまたまた早稲田大学に考古学を学び、あげくのはてにヘソクリをためた南極などあますところなく歩いた女です。おそろしいほどの妻です」(まえがき)と言っている。萬寿子さんは42歳の時から海外旅行をはじめ、二度目の北極訪問は75歳の時であった。
 森繁さんは色紙に好んで兼好法師の言葉を書く。本の扉にも「されば道人は遠く日月を惜しむべからずただ今の一念 むなしく過ぎることを惜しむべし」とある。さらに本のうしろ扉にも「鵜は沈み 鵜は浮き 人は船の上」の句がしたためられ、鵜の絵まで墨で描かれている。森繁さんの筆は達筆である。文字の大きさなどに心を配り、濃淡をつけ、のびのびした筆使いである。洒脱、自由自在、色気などを感じさせる。平成2年11月森繁さんは奥さんをしのんで「思えば またも虚しさに 涙頬をぬらす ああ 1990年 慙愧の秋は 黙然として 更けるのみ」の詩を残す。
 森繁さんは萬寿子さんの死に遅れること19年、11月10日、この世を去った。「銀座展望台」(11月11日)に次のように書いた。
 ▲森繁久弥逝く。享年96歳。心からご冥福をお祈りする。
 スポニチに在籍した関係で会う機会が少なくなかった。作詞作曲した「知床旅情」を歌う森繁さんにはその人柄が全部表現されていると私は思う。あの哀愁はどこから来るのか。
 日本の新聞記者の中でお芝居を一番多くみているスポニチの木村隆氏記者は“森繁節”を書く。
 「トイレで“今はただ小便だけの道具かな”と正面を向いたままニヤリ」
 「金や女にだらしない役がピカいちだった」
 共演する女優さんに「ちょっとだけ、ちょっとだけ」と迫る森繁さんであった。
 中国大陸生活も7年。名優はすべてを肥やしにして、それを芝居に最大限生かした。日常の生活がすべてお芝居さながらであった。合掌。
 

(柳 路夫)