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山と私
(59)
国分 リン
――念願かなった「北ア・薬師岳から五色ヶ原縦走」――
《あれが薬師 かつて13人の若者が 何かを求めて ついに帰れなかった
みたされたためしのない 怒涛のように それが彼方にあるならば
彼らはそれを承知で いったのであろう… S38.》
薬師岳山荘の食堂の古びた額の言葉に胸を打たれた。折立登山道の登り始めに「十三重之塔慰霊碑」が立派に建立されている。昭和38年1月2日、愛知大学山岳部パーティ13人は全員で薬師岳山頂を目指し猛吹雪のため道を失い遭難死、最初の遺体が発見されたのは3月になってから、最後の2遺体は初冬の気配が漂い始めた10月であったと、記されていた。悲しみの中、身内や仲間達の必死さが伝わり、同年代なのでその当時を思い、彼らの無念さに身につまされた。
5連休中の山を何処にするか、夏山に続きガイドをお願いしたスポニチ登山学校の片平先生と相談し、私の希望する薬師岳からの縦走に決定した。期待と不安を抱えながら夜行バスや折立行きのバスの予約をし、準備を整えた。
9月19日(土)22時東京駅八重洲口、夜行バス乗り場は大勢の人々がバス待ちの賑やかさで驚いた。22時40分発の金沢行きも3台準備され、満席であった。このバスはシートも倒れ3列なのでゆったり眠れた。
9月20日(日)晴 6時に富山駅到着、急いでバスを折立行きに乗り換えた。2台準備されていた。予約制でこの時間帯だけなので、間に合って安心した。19日の初日は4台も折立まで入り、自家用車も駐車場から溢れ、登山道から離れた場所まで一杯で、林道入り口の管理人が、500人を超える登山者は始めてと聞いて驚いたバスの運転手が話していた。シルバーウイークの高速道路1000円効果と、長期天気予報が良いためであろう。山小屋の混雑は大変だったと思うと、1日のずれに感謝した。折立登山口には水洗トイレが設置され、水も豊富で、ベンチでゆっくり朝食をとり、準備をして登山開始は8時半。山にのめりこんだ最初の登山道、夢中で大汗をかき、付いて登るのが精一杯だった17年前、今は余裕のマイペースで息も切らさず登山道を楽しんで登る。三角点(1871m)9時45分到着、沢山の登山者が休憩をとっていた。水分補給だけで先を急ぐと、周囲が明るくなり黄色や、赤く色付いた木々が見事だ。気分も軽やかに五光岩ベンチ(2196m)に11時到着。ここは尾根に出て見晴らしが良く、周囲の山々の眺望の場所で、ここも大勢の登山客で賑わっていた。みかんとバナナで元気を回復し、整備された石を埋め込んだ登山道が続くが、本来8月ならば高山植物の宝庫をカメラで花たちを追いかけた記憶があるが、今はもう草紅葉が風に揺れている。青空が広がり、行く手の太郎平を目にしながら歩くと、木道に到着。赤い屋根を見つけ太郎平小屋に12時30分到着。既に大勢の登山者が休んでいた。昼食を済ませ、太郎平からの眺望を楽しむ。向かって左から薬師・水晶・鷲羽・三俣蓮華・黒部五郎の峰々が招くように輝いていた。しばらく楽しみ、いよいよ始めての道へ踏み出す。キャンプ場までの高度差100mの降りの木道は草紅葉を楽しみながら歩く。20分ほどで色とりどりのテント場へ、15張程があった。ここからいよいよ薬師岳への上りは、岩ごろの沢の道を詰めて登る。時々後ろを振り返ると槍の穂先が見えるようになった。ようやく薬師平の木道に到着。黄色や赤く化粧した木々が素晴らしい。ケルンの傍のベンチで一休み。懐かしい黒部五郎や雲の平やその奥の槍も見えて嬉しい。ベンチには薬師を毎年上っている男性が「ここの眺めは良いので時間(テント泊)が許す限りのんびりする」と羨ましい。薬師岳山荘を目指しての上り、ふっと見上げると赤い屋根が見え到着。山荘は大賑わいで既に部屋は足の踏み場もなく布団が敷き詰められていたが、幸い奥の隅である。外で乾杯をして、改めて周囲を見渡すと、西側はすっかり雲海になっていた。このような雲海は珍しいと山荘の方が教えてくれた。東側を見ると槍が姿を見せている。そこへ声を掛けられた。ヒマラヤ協会のH氏がK2(世界で2番目)挑戦を7300mで断念して帰り、体調を整えての始めての日本の山をご夫婦で登りにみえ、偶然に会い、お喋りや酒を酌み交わした。「やはり日本の山の緑豊富なところが良いなあ」彼の心からの感想であった。山荘手前にある「国指定特別天然記念物・薬師岳の圏谷群」の標識があった。薬師岳には金作谷・中央・南稜の3カールがある。カールとは、日本には数十万年以降に何回かの氷河期があり、当時の高山は氷河に覆われていたといわれている。氷河は山を侵食しスプーンで削ったような地形、いわゆる氷河地形(U字谷・圏谷)のことをいう。薬師のカールを見られてよかった。雲海の上から夕日が沈む様は感動ものであった。
9月21日(月)晴れ 5時ヘッドランプを点けて薬師岳山頂を目指す。ご来光を期待して登るが、山頂手前の愛知大学山岳部のケルンで迎えた。この感動を感じるために登るのかと思う。稜線を登るとお社が見え薬師岳(2926m)5時40分到着。念願の薬師からの360度の眺望に胸が一杯になり、暫く佇んだ。立派なお社の中には開山祭で薬師如来様を担ぎ上げ、小屋仕舞のときに麓へ祀るとのことで、無事の下山を祈る。先を急ぐので岩場を降り、歩きにくい岩だらけの稜線を必死で歩くと北薬師岳(2900m)到着。記念撮影をして、前方を見ると薬師岳で一緒になったグループが縦走路の彼方にみえた。大きな岩の間ぐんぐん高度を下げ、比較的歩き易い道になり、周囲の景色を楽しみながら下っていると、逆のコースで登ってくるグループに出会う。5時間のひたすら上りコース、眼前に大きな北薬師が聳える。「がんばって」と思わず声を掛けた。草紅葉や赤く化粧した広葉樹が陽に映えている丘に外国人登山者5人と、単独行の若い女性が休憩中の場所は間山(2585m)であり、私たちもゆっくり休憩。ここからスゴ乗越小屋まで降りる。10時到着である。水の音がする。ジュースやビールが流水に冷やされている。冷たく美味しい水が飲み放題である。木で四角に作られた床の上に手作りのテーブルと椅子の場所が3ヶ所あり休憩には心地よい。休んで前方を見るとスゴの頭と左の越中沢岳がドーンと聳えていた。その姿をみて登ることを考え、五色ヶ原山荘までがんばる体力があるかと思うとしり込みをして、この小屋へ宿泊することを片平先生にお願いした。「今日は休憩日として、明日は立山まで10時間コースを歩きますよ。」笑顔で了承された。でも後から考えると、お天気の良い日に五色ヶ原山荘まで歩けばよかったなと反省した。1番の宿泊申込なので奥の隅に布団1枚に1人で余裕、清潔感があり、昨夜の薬師山荘とは大違いである。二階にはテラスも作られ椅子テーブルも設置されていた。夕方には宿泊客で賑わった。涼しくなり、ストーブに火が入り、皆周りに集まり雑談に花が咲いた。「明日は4時出発にします」明日を考えるとどきどきしたが、19時に就寝。
9月22日(火)曇り・雨 4時に出発。まだ漆黒の世界、月明かりもなくヘッドランプを点け歩き出す。スゴ乗越の鞍部まで降り、いよいよスゴの頭までの登り、暗い道を転ばないようにひたすら登る。ガスが立ち込め今にも雨が降りそうだ。「こんなに辛い想いをしてなぜ山へ」自問自答をしているうちに涙が出そうになった。片平先生は私の足元を注意深く照らしながら私の速度に合わせながら歩く。岩場やロープ場を慎重に登ると3時間ほどで越中沢岳(2591m)へ到着。晴れていればここからは五色ヶ原・立山の絶景が素晴らしいと書いてあった。「コースタイム通りだから安心ですよ」と励まされた。この言葉と気力が溢れてきた。この頃から霧雨が振り出し、周囲の景色は何も見えず、ただひたすら稜線を歩く。一旦下ってまた上り返すと鳶山(2616m)へ、ここからは木道が整備され、一目散に五色ヶ原へ、晴れていれば一面の草紅葉の色と、夏の一面のお花畑を想像しながら歩く。尾瀬ヶ原の広さに匹敵するくらい広い草原に、1周出来そうな木道があった。晴れていたら絶対に一泊と思うが、雨のためその希望もなかった。五色ヶ原山荘はひっそりとしていた。バッジを購入し、立山のアルペンルートの情報を聞くと、19日の連休初日は扇沢で2,3時間待ちが普通で、宿泊予定者もキャンセルが出るくらいの大賑わいだった。「最終16時30分に間に合うように歩きましょう。」ザラ峠まで降り、獅子岳の登りはクサリ場やはしご場もあり今日1番のきつい登りであった。獅子岳(2741m)へやっと登ったときは安心した。岩場の連続を慎重に1歩ずつ登り、鬼岳東面へ着き、富山大研究施設の大きな建物が見え、竜王岳を超え、苦手なロッククライミングの浄土山を必死で下山し、室堂へ続く整備された道へ出たときは、本当によく歩いたなと感心した。ガスに包まれた室堂平は眺望もなく、ひっそりと私たちを迎えてくれた。室堂駅のターミナル16時到着。感激で思わず片平先生に握手を求めた。深い感謝の気持ちで今回の縦走登山を終えた。このコースはアップダウンもかなりあり、その上エスケープルートも無いので要注意とガイドブックに載っている。やはり片平先生にガイドをお願いしたことが、安心して登り、縦走できた1番の要因と思う。年齢を重ねて体力も下降線、でもゆっくりペースで歩けば、夢は叶うし、諦めずにトレーニングを継続することが、山を続けることが出来る秘訣と教えられたことも、今回の収穫であった。
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