安全地帯(267)
−信濃 太郎−
ああ大正14年という時代(大正精神史・文化・世相)
東京放送局は大正14年3月1日、産声を上げる。テスト放送の第一声は「あーあーあー聞こえますか。JOAKこちら東京放送局です」。なんという初々しい誕生であろう。ラジオ放送には東京の局ではJOAK,大阪ではJOBK,名古屋ではJOCKとコールサインを言うのが決まりであった。東京放送局のテスト放送にはこの日、横浜に上陸したイタリアのカービ歌劇団のメンバーによるアリアの歌声が電波に乗った。最初から洋楽がラジオの番組に入れられたのは驚くべきである。仮放送が3月22日に始まり、この日が放送記念日となる。本放送は7月12日。聴取者は5455人であった。
ラジオ番組が新聞に載るのは大正14年8月9日(日曜日)からである(横浜貿易新報)。
▲09:40 講座 「建国の精神」▲12:10 琵琶 義太夫 囃子など▲17:45 生田流三曲 義太夫▼シンホニーオーケストラ(日本交響楽協会)指揮者(山田耕作)▽アンダンテ、カンタービレ(チャイコフスキー作曲)▽アルジェリア組曲サンサーン作曲(イ)前奏曲(アリジェリアを眺めて)(ロ)ムーア風のラプソディ(ハ)タの幻想(ニ)仏蘭西軍隊行進曲
当時ラジオに対する聴取者の要望は,和楽37・8%、洋楽23・1%、演芸・演劇33・3%であった。
大正14年9月14日、劇作家の久保田万太郎がお芝居の話をラジオ放送している。その初体験を雑誌「中央公論」(大正14年10月号)の「マイクロホンの前で」に書いている。
「(略) 時間が来ていざ、放送室に入ったとき、アナウンサアのO君が紹介をすましてわたしのほうへ合図をしてくれたときわたしのまへにはただマイクロホンのまっくろな格好があるばかりであった。―そのうしろの何万という見えざる聴衆。―そんなこと、わたしには、とても空想さへできなかった。―信じようとさへ思へなかった。(略) 私は夢中で喋った―しかし運命づけられたものの恐れをもってただもう夢中に、原稿の行から行へ眼をうつした。―わたしの悪い癖の、わたしの最もいけない条件に置かれた場合の、舌の回転のだんだん急速になってゆくのをはっきり自分に感じながら、わたしは自分にその手綱を引き締めることができなかった。―しかし私は「見当」を―わたし自身の料簡を失った。20分という時間がどんなに長くわたしのうえに流れたらう?−わたしは体を汗に浮かして放送室を出た。(略)」
久保田万太郎と東京放送局との縁はすでにあった。その年の8月30日夜、初代放送部長の服部信夫が作った「ラジオドラマ研究会」の第一回推薦脚本、万太郎の「暮れ型」が放送されている。その年の10月からは愛宕山の局に嘱託として週一回通勤する。
大正15年9月、東京放送局は社団法人日本放送協会の東京中央放送局になる。のちに久保田万太郎が文芸課長に就任する。ある座談会で久保田万太郎は「官庁の前例は法規に準じる」なんて言うことを知ったのは、放送局に勤めたおかげと発言している。
久保田万太郎といえば俳人としてよく知られている。東京・浅草寺境内に「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」の万太郎の句碑がある。昭和38年5月6日死去、享年74歳であった。
因みに大正時代の天長節は大正天皇がお生まれになった8月31日ではない。というのは8月が学校の夏休み中なので10月31日とした。本来は1ヶ月遅れの9月にすべきだが9月には31日がないのでやむなく10月にしたという。