2009年(平成21年)9月1日号

No.442

銀座一丁目新聞

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追悼録(358)

金大中元大統領をしのぶ

 不屈の男・金大中元大統領がなくなった(8月18日・享年83歳)。私と同じ年である。死ぬにはまだ早すぎた。波乱万丈の人生であった。尊敬してやまない。1998年(平成10年)4度目の挑戦で15代韓国大統領となる。中国で少年期を過ごした私は、金大中が当時、新京(長春)にあった「建国大学政治学科」に一時、学んだと聞いて親近感を抱いたものだ。建国大学は1938年(昭和13年)5月に開学、自由な校風が特色であった。私の中学の何人かの先輩もここで学んでいる。学費は無料、全寮制、日本人、満州人、朝鮮人、モンゴル人、ロシア人の学生が寝食をともにした。朝鮮人では元韓国国務総理、姜英勲など韓国で活躍した政治家がいる。
 本誌茶説で「金大中大統領に期待する」の一文を書いた。その中で「一国の政治はその国のトップの手腕、識見、人格によって決まる。韓国の舵取りは確かに難しい。それだけにやりがいがある」と論じた。彼は「太陽政策」を採り、北朝鮮の金正日と会談、韓国と北朝鮮との協力・融和関係を図った。2002年(平成14年)9月小泉純一郎首相が北朝鮮を訪問する際には、金大中大統領から「金正日は変な人と思われているようだが、けしてそうではない。世界のいろんな情報をよく知っている。ぜひ、話をしてみてはどうか」と進められている。金大中には他の韓国人にありがちな反日感情を持ち合わせていなかった。後に受賞したノーベル平和賞の受賞理由にも「韓国の近隣諸国とりわけ日本との和解に勤めた」とあるという(産経新聞・リチャード・ハロランさんの論文より)。
 日本人に忘れられないのは、1973年((昭和48年)に起きた「金大中拉致事件」であろう。東京・九段のホテルから拉致され韓国行きの船の上から海へ投げ出されようとされたとき、無線による日米両国の強硬な抗議に命を救われた。朝鮮戦争の際、北朝鮮軍に捕まり処刑寸前となった。また光州事件でも死刑判決を受けた。それでも金大中は生き延びてきた。地獄の淵を彷徨った男は「常に冷静で分析的であった」と、われわれは知る。さらに彼が敬虔なカトリック信者であったことも忘れてはなるまい。金大中の冥福を心から祈る。
 

(柳 路夫)