2009年(平成21年)9月1日号

No.442

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花ある風景(357)

並木 徹

ペトロ岐部神父について

 遠藤周作の著書「走馬灯」(毎日新聞刊・昭和52年5月20日発行)に「国東半島」と題して江戸時代、拷問に屈せず殉教した神父・ペトロ岐部について触れている。ペトロ岐部は19歳のとき有馬の神学校に入りラテン語やポルトガル語を学び、卒業後、外人宣教師や修道士の世話をしたり通訳をしたりする仕事をする(同宿という)。26歳のとき、家康のきびしい禁令をのがれてマカオに行く。さらにエレサレムを経てローマまで足を延ばす。ローマのグレゴリオ大学倫理神学科に入学する。3年の留学を終えて1623年(元和9年・徳川秀光将軍宣下)帰国の途に就く。薩摩の坊の津に着いたのは、日本を離れて16年も立っていた。日本では切支丹迫害の嵐が吹きすさぶ。長崎から東北の伊達領で宣教中捕縛される。1639年(寛永16年・1637年から1638年に島原の乱が起きる)である。幕府の評定所で残酷な拷問を受けるも屈しなかったため殺害される。別の資料によると、この時、幕府はかって日本の布教長であり、のちに背教したクリストヴァン・フェレイラにペトロ岐部を説得させようとしたが、ペトロ岐部は逆に背教者に信仰に立ち返るよう勧めたという。しかも一緒に捕まって拷問にかけられている若い同宿に「転ぶな、偉大な神がきっと抱いてくださるのだ」とはげました。
 松永伍一著「ペトロ岐部」(中公新書・昭和59年11月25日発行)は記す。『ヨハネ伝12章に言う「誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麦、地に落ちて死なずば,ただ一つにてあらん。もし死なば、多くの果を結ぶべし」を、わが身の営みにしようと魂を浄化し、日本式十字架にかけられて死んだとき、キリスト教の側からみれば、「イエズス会士の輝ける殉教」の一例にすぎないとしても、わが国にとっては17世紀に世界を歩いてユダヤ教徒、イスラム教徒などの生態をも知った最大の国際人を、鎖国の徹底化と引き換えに殺した不幸な事件となった」。ペトロ岐部は実にえらい尊敬すべき神父であった。
 遠藤周作は「国東半島」最後の下りで「正月になると、毎年、世田谷に住む岐部豊さんから年賀状を頂く(現在・江東区亀戸に在住)。私はその年賀状をじっと見つめる。このペトロ岐部の血を引いた人だからである」と書いている。その岐部豊さんからこの8月の初め、ペトロ岐部に関する資料・本5冊とスクラップ帳2冊が届いた。実は岐部豊君は大連2中の同級生である。岐部君が念願するのは、ペトロ岐部遺徳を顕彰する会の財団化、その生涯をテレビの大河ドラマにすること、列聖化などである。これまでにもその実現化にそれなりの努力をしてきた。80歳を過ぎても並々ならぬ情熱を持っているのに敬服する。スクラップ帳の新聞によると、昨年11月24日、長崎市の県営球場でローマ法王庁による「ペトロ岐部と187殉教者列福式」が行われている。死後、信仰の模範にふさわしいと認められる信者を「聖人」に次ぐ敬称である「福者」として宣言するカトリックの式典である。日本での開催は初めてであった。ペトロ岐部の生まれ故郷、大分県国東半島の北端・岐部には320年記念祭(昭和34年9月24日)に建てられた十字架がある。平成4年10月には大分市で県民オペラ「ペトロ岐部―転び申さず候」が上演され、ペトロ岐部の遺徳はそれなりには知られている。その遺徳を「地方区」から「全国区」にしようとするのが岐部君の切なる願いである。