2009年(平成21年)9月1日号

No.442

銀座一丁目新聞

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安全地帯(259)

信濃 太郎

文芸春秋、呱々の声をあげる(大正精神史・雑誌発刊)

月刊「文芸春秋」が生まれたのは大正12年1月である。創刊号は菊池寛が一人ですべてをこなした。題名は当時菊池寛が「新潮」に書いた文芸時評の題をそのまま付けたものであった。ページ数29頁、部数3000部、1部10銭であった(新聞1ヶ月37銭)。大正11年4月2日の第1日曜に創刊された「サンデー毎日」は本文24頁、タブロイド判で1部10銭であった。部数34万部(うち3割が無代配布、実部数23万部)同じ年の2月25日に第1号が出た「旬刊朝日」(4月から「週刊朝日」と改題する)は同じくタブロイド判で36頁、1部10銭、部数35万部であった。
 菊地寛は15,60円ぐらいの損を覚悟していたらしい。3号まで返品はなかった。創刊1ヶ月で年間購読者が150余名もあった。創刊の辞にいう。「私は頼まれて物をいうことに飽いた。自分で考えていることを、読者や編集者に気兼ねなしに、自由な気持ちで云ってみたい。友人にも私と同感のものが多いだろう。又私が知っている若い人たちには、物が云ひたくてウズしている人が多い。一つには自分のため,一つには他人のため、この小雑誌を出すことにした」この方針で雑誌が売れたのは、優れた作家仲間を持つ菊地寛の時代を見る目、庶民の心をつかむセンスが抜群であったからであろう。一方「サンデー毎日」の編集方針は「面白くて実際の役に立つ」というものであった。アメリカの「サンデー・トリビューン」紙の日曜版を手本にしたという。
 このころの日本は、第1次世界大戦後に起きた不況がじわじわと浸透してきた時であった。出版は意外と不況に強いといわれ、「改造」(大正8年)「新青年」(大正9年)「キング」(大正14年)が生まれている。
 「文芸春秋」創刊号の執筆者は次の通りである。
 芥川龍之介、菊池寛、中戸川吉二、今東光、川端康成、横光利一、小柳博、鈴木彦二郎、
 鈴木氏享、南幸夫、斎藤竜太郎、佐々木味津三、船田享二、酒井真人、清野暢一郎、直木三十五、三上於莵吉、岡栄一郎、児島政二郎の19名。
 3月号(56頁・6000部印刷)に興味ある「文芸春秋清規」が載っている。
 1、 いかなる大家の原稿といえども9枚以上絶対お断りのこと
 2、 3枚より6枚半ぐらいを最も歓迎すること。それ以上は困ること。
 3、 原稿料の不平催促一切ご無用のこと
 4、 小遣取りを執筆の動機とすること一切お断りのこと。但し結果として小遣ひ取りとなることは、結構なること。
 5、 活字の大小、掲載の場所については、有名無名を問わず編集者に一任されたきこと
 6、 投稿の取捨についは不平なかるべきこと。投稿は一切返戻せざること。
 4の解釈は微妙である。作家と編集長が親密になると「少しお金がほしい。このテーマで書かしてほしい」と頼まれると断りにくい。それでいて書かせると読者を喜ばせるような作品が生まれるから不思議である。なおこの号の表紙は恩地孝四郎の作で、初めて石版刷りとなり今日の文芸春秋型の表紙が出来上がった。
 週刊誌の売れる企画の柱は1表紙、2グラビア、3特集、4連載小説などである。この4つがすべてうまくいくと売れる。「サンデー毎日」は大正13年5月25日号のトップに白井喬二の「新撰組」を掲載した。これはこれまでの常識を破るものであった。また金森観陽の挿絵を派手に大きく扱って読者を驚かせた。評判を呼び大正14年6月28日号の56回で完結した。おかげで部数は倍増した。
 白井喬二に目を付けたのは演劇と小説を担当していた石割松太郎で、石割記者は小説がわかる人で無名の作家たちに目をつけ、その短編を「サンデー毎日」に掲載してきた。当時「新講談」となづけられていた大衆文芸の揺籃期の育ての親とも言うべき記者であった。次のようなエピソードもある。「新撰組」の好評に目を付けた大阪毎日新聞の社会部長、阿部真之助が石割記者に「白井喬二に新聞にも連載してくれるよう頼んでくれ」と依頼したところ、石割記者は今「サンデー毎日」に連載中でエネルギーが二分するからだめだと拒絶した。そのため阿部社会部長と大喧嘩になった。ところが阿部社会部長が講談社の知人に相談したところ吉川英治を紹介された。そこで生まれたのが吉川英治の初の新聞連載「鳴門の秘帳」である。これにより吉川英治の文名が一躍有名になったといわれる(野村尚吾著「週刊誌5〇年」。毎日新聞社刊)。
 大正14年、文芸春秋は2万から3万に躍進した。その年の7月号の編集後記に菊池寛は「文芸春秋の体裁、編集方針、定価、誌名などがいかに雑誌界を風靡しているかを考えるのは愉快である」といっている。この時普通号の定価は25銭、特別号30銭であった(「文芸春秋」80年傑作選鈴木氏亨の「文芸春秋10年史」より)。月刊「文芸春秋」には今なお菊池寛の大衆文芸の志が受け継がれている。伝統である。けして生半可なものではない。大宅壮一が菊池寛について「菊池は女性的であるが暴力や脅迫には強い」と次のような話を書いている。「大杉栄の葬式の途中で遺骨を奪った大化会のことを書いた深田久弥の小説が「オール読物」に出て、暴力団が怒鳴り込んできたときにも、菊池は自分が出て行って、簡単に処理した。相手がピストルを突き付けても『君、僕を殺したのでは、金ヅルがなくなってしまうじゃないか』といった調子で相手の盲点を突いて成功したものだ」(「人物鑑定法」上・サンケイ新聞出版局)。菊池寛はなみの人物ではなかった。