2009年(平成21年)1月10日号

No.419

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
連載小説
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

茶説

大正時代を生きた
日本人の姿を描きたい

(大正精神史)
 

牧念人 悠々

 「昭和精神史」(文芸春秋)を出した桶谷秀昭はその著書名を名付けた理由について文学史でもなく、思想史でもなく、あるいは思潮史でもなく、この時代に生きた日本人の心の姿を、できるだけ具体的に描きたいからであるといっている。生涯ジャーナリストを念ずる私もほとんど変わらない。これまで事件を追い、その時々の時代の現象を断片的にとらえた企画ものを手掛けてきたので、事件、人物、世相を中心として描いてゆくつもりである。学問を系統的に勉強したことはない。社会部記者は「広く浅く」をモットーとして取材してきた。その性格は変わらない。理屈をこねるつもりはない。こねるほどの高邁な理論を持ち合わせていない。
 大正の初め庶民の心をとらえたのは女優松井須磨子が歌う「カチューシャの唄」(作詞・島村抱月・相馬御風、作曲・中山晋平・原題復活唱歌)であった。早稲田大学で英文学を講じていた島村抱月は大正3年、早稲田をやめて相思相愛の松井須磨子とともに劇団「芸術座」を作った。3月26日帝国劇場でトルストイの「復活」を上演、その中で松井須磨子が劇中歌として「カチューシャの唄」をうたった。それを「駱駝印・オリエント・レコード」に吹き込んだところ「カチューシャの歌」が爆発的に流行。それとともに演歌師の歌本として売り広められ、全国にはやった。松井須磨子の名前も知られるようになった。28歳であった。

 「カチューシャかわいや
  わかれのつらさ
  せめて淡雪とけぬ間と
  神に願いララかけましょうか」

 無名であった中山晋平はこの歌で一躍有名になった。翌年ツルゲーネフの「その前夜」の主題歌「ゴンドラの唄」(作詞・吉井勇、作曲・中山晋平)、さらに大正6年トルストイの「生ける屍」での「さすらひの唄」(作詞・北原白秋、作曲・中山晋平)が芝居よりも劇中歌として興行成績を左右するほどの人気を集めた。歌は時代を作り、時代は歌を作るという。この時代、文学的で音楽的であったその歌詞と曲が庶民に共鳴・共感し、快く受け入れられたということであろう。
 「復活」はトルストイの71歳の作品(1899年3月発表)である。発表されるや異常な反響がまき起きた。そのテーマはまさに「復活」である。自分を陥れた女カチューシャに自分の姿を見る思いがして、陪審員のネフリュードフは彼女をなんとか救おうとし、自分も新しい人間になってゆこうとする。この「愛」は特定の者に対する偏愛ではなく、不変なものではなくてならないとするトルストイが主張するものであった。
 松井須磨子は明治42年坪内逍遥、島村抱月の「文芸協会」の第1期生で、44年に卒業、帝国劇場で上演されたシェイクスピア「ハムレット」のオフィリヤが初舞台であった。つづくイブセンの「人形の家」のノラで認められた。島村抱月は大正7年11月5日風邪がもとで48歳な働き盛りで死去すると、松井須磨子が翌年の1月5日跡を追って東京・牛込区横寺町の藝術倶楽部で縊死した。時に34歳であった。抱月の死後毎日のように「死にたい、死にたい」と口癖のように言っていたという。兄宛の遺書には「私はやはり先生のところに行きます。一緒の所に埋めて下さい」とあった。演劇の手ほどきを受け、恋に落ちた島村抱月への愛に松井須磨子は殉じた。
 この時代歌はレコードより演歌師の歌本によって広まった。もちろん「カチューシャの唄」もそれによるが演歌師手作り流行歌もあった。当時の新聞によると「夕涼みの人を目当てに、人通り繁き街路の隅で、時代や事件を風刺し、しかも俗悪極まる唄を高唱して商売しているものが、近来著しく多くなった。心あるものは未成熟な年少子女に及ぼす影響の大なるに眉をひそめている」(大正9年8月1日東京朝日新聞)とある。
 現代はテレビのバラエティー番組がこれに代わっている。むしろ歌手が歌う演歌はきわめて作品の質が高い。俗悪を求めるのは人間の性であろうか。俗悪も度を超すと醜いものになる。それでも視聴率を稼げると思っているから始末が悪い。