2009年(平成21年)1月10日号

No.419

銀座一丁目新聞

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追悼録(335)

人との絆を説いた山口弥六さんを偲ぶ

 年とともに仲間の集りが悪くなる。仕方がない。昨年5月、戦時中激しい訓練に明け暮れた神奈川県座間の元陸軍士官学校(現米軍キャンプ、陸上自衛隊第4施設群。座間分屯地)で最後の本科14中隊会(歩兵科2区隊・工兵科3区隊)を開いたときのことである。区隊長としてただ一人参加された工兵の第4区隊長山口弥六さん(陸士55期)の話が感動的であった。今なおはっきりと記憶している。当日の集合場所は小田急線「相武台前駅」、時間は正午であった。全国から集まった36名全員が時間通りに集合した。さすがというほかない。山口区隊長は午前11時前に来られた。肺気腫のため携帯用の酸素吸入器を引っ張って改札口に姿を見せられた。早速その場にいた歩兵科の筆安正安晄君が駅構内の喫茶店に案内して相手した。私は世話人の一人であったが同期生のさりげない行動に感心した。このとき山口区隊長が引っ張っていたものが何であったか知らなかった。区隊長の挨拶ではじめてわかった。山口区隊長は「私は人と人のつながりを大切にしております。絆を大切にするのが私の哲学です」と前置きして自分が今満身創痍であることを明らかにされた。
 「頭はこの3月アルツハイマー性認知症と診断された。胸は長年の胸部疾患の結果肺気腫となり、外出時には酸素ボンベの世話になる始末、下は前立腺がんを患い、袋をぶら下げて尿を取っております。それでも駅にはエスカレーターもエレベーターもありそれを利用すれば何も不自由はありません。最後まで生きる喜びを持って楽しんでください」
 良い先輩を持ったものだと感服した。山口弥六さんが昨年の12月19日なくなられた。25日小金井市の幡随院で開かれた通夜に出席した。4区隊の教え子の有賀亮君、川井孝輔君、園部忠君、前沢功君の4人が来ていた。私が歩兵科の同期生を代表して参列した形となった。その席上こんな話が出た。昭和20年4月、隊付きが終わったころである。同区隊のO君の整理棚に隠してあったサツマイモが見つかり大問題となった。寝台戦友であった有賀君は事情を聞かれたが、かばう余地はなかった。演習の時、畑から持ってきたものであった。中隊長が下した処分は「退学」であった。戦後、園部君が山口区隊長に「O君の事件を知っていますか」と聞いたところ「覚えてない」と答えられたという。園部君は「あの人は優等生であった(幼年学校、陸士ともに恩賜であった)。だから“言わざる”“見ざる”“聞かざる”を心得ている。そんな一面があった」と話してくれた。O君は戦後59期生として私たちと差別されることもなく戦後を生き抜いた。
 山口区隊長と最後にお会いしたのは昨年11月29日多摩偕行会が小平市の自衛隊小平駐屯地で開かれた時である。酸素ボンベを持参しての参加であった。お元気な様子であった。この日、陸士53期から自衛官を含めて120人が出席した。午前11時からイラク派遣先遣隊隊長であった参院議員佐藤正久さんの「参議院議員一年生の奮闘ぶり」の講演を聞いた。そのあと一同で会食した。山口さんが亡くなられる20日前の会合であった。山口弥六さんは絆を大切にされた人であったとしみじみと思う。

(柳 路夫)