2008年(平成20年)10月01日号

No.409

銀座一丁目新聞

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追悼録(325)

映画「ラストゲーム 最後の早慶戦」を見る

 本年7月10日号「花ある風景」で映画「ラストゲーム 最後の早慶戦」を取り上げた。その中で試合が終わった時、早稲田と慶応の両校がエールを交換したあと、期せずして両校の学生たちが「海行かば」の大合唱をしたのだが、そのシーンが映画からすっぽり抜け落ちていると紹介した。そのことが気になっていた。やっと映画を見た(9月19日)。率直にいえば、感動した。試合は10対1で早稲田の勝利に終わり両軍選手がホームベースに並んだところ、早稲田側から「若き血に燃ゆる者・・」の大合唱が起きる。つづいて今度は慶応側から「都の西北早稲田の森に・・・」と応じる。このシーンは感動的で涙が出た。この後映画の画面は戦争が苛烈となり、特攻出撃を余儀なくされ敵艦に体当たりし、あるいは途中で撃墜されたりする。この試合に出た早稲田の選手のうち4人が戦没する。中には1945年4月神風特攻隊員として沖縄に出撃、散華した選手もいる。
 当時慶応チームの捕手として出場した松尾俊治は書く。「試合後起きた出来事は非常に素晴らしく、また感激的なものでした。両校の学生が一緒になって、校歌、応援歌を力の限り歌い続けた。このときどこからともなくわきあがる『海行かば』の厳粛な歌声は大合唱となって球場に響き、早稲田の杜を揺るがした」(映画のプログラムより)この映画の監督は「どこからともなくわきあがった」学生の心情を「己の海行かばの歌の嫌悪感」の前に見逃してしまったと、あえて私は言う。松尾俊治は続ける。「歌が終わると『この次は戦場で会おう』『お互いに頑張ろうぜ』と叫びあった。ともに戦場へ行く仲間として励ましあう気持ちがグラウンド全体を包み込んでいた」間もなく戦場に赴く若者の気持ちが「海行かば」そのものとなった。監督はそれに目をつぶってしまったと、私はあえて書く。このシーンがあれば私の涙はとどまることを知らなかったであろう。
 最後の早慶戦が行われたのは昭和18年10月16日(土曜日)であった。私は18歳。その年の4月、埼玉県朝霞にあった陸軍予科士官学校に59期生として入校、決戦の日に備えて勉学と訓練にいそしんでいた。同期生・長井五郎の日記によれば10月16日は靖国神社秋季臨時大祭の日で、長井君は靖国神社に参拝する。参拝後アッツ島玉砕(5月)ガダルカナル島の苦戦(2月同島から撤退・損害2万5000)の様子を描いた壁画を見る。新聞は苛烈なる航空撃滅戦の模様を報ずるとある。
 「もう一度、試合をしたい」という選手たちの熱き想いと野球を愛する人たちの切なる願いを実現に努力したのは慶応義塾大学総長、小泉信三さんと早稲田大学野球部顧問の飛田穂洲さんであった。経済学者であった小泉さんは野球フアンで、戦時下でもあっても野球を中止する無意味さを説いた。「練習は不可能を可能にする」というのが小泉総長のモットーであった。昭和41年5月、78歳で死去した。
 飛田穂洲さんは早稲田大学の野球部の監督も務めたが朝日新聞の異色の記者であった。野球には一家言を持っていた。昭和17年に早稲田の野球部の顧問に就任した。野球道を唱え「一球入魂」を説いた。昭和40年79歳で死去した。
 久しぶりに映画を見て涙が出た。観客は多くはなかった。監督への批判は批判としてこの映画は見るに値する。ぜひ映画館に足を運んでほしい。

(柳 路夫)