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麻生太郎内閣の行方を論ずる
牧念人 悠々
麻生太郎首相は総選挙後も再び政権を維持できるか分析してみたい。まず有権者はどう見ているのか、毎日新聞の世論調査でみる(9月26日)。内閣支持率は45%。高ければよいというものでもない。福田康夫首相は57%もあった。次期衆院選挙で勝利を望む政党は自民党41%、民主党37%。この質問は昨年8月から続けているがこれまで常に民主党がリードしてきた。ここへきて逆転した。政党支持率は自民党28%、民主党22%である。麻生太郎と小沢一郎のどちらが首相にふさわしいかの質問に麻生太郎42%、小沢一郎19%である。小沢民主党代表は意外と人気がない。民主党代表選挙で新進気鋭の若手を代表に選んでいたらまた違った結果となったであろう。
時代の底流には二大政党化への強い流れがある。今、国民の行政に対する不満は噴出している。「食の安全」「後期高齢者医療制度」「景気問題」は深刻だ。お役人の無責任,職務怠慢、不祥事は後を絶たない。それらがすべて自民党内閣の責任となる。国会で揉めればすぐに自民党の失点となる。中山成彬国土交通相(65)の就任5日後の「失言による辞任」は打撃である。それにどちらに転ぶかわかない無党派層が30%もいる。9月29日からの国会での与野党の論戦も大きく影響する。ことが起きると世論はたちまち民主党に傾くことになる。総選挙における自民党と民主党の勝負は「接戦」と見るほかない。
麻生首相は国連総会での演説でインド洋での給油継続と集団自衛権を認める、憲法解釈の変更をぶち上げた。当然である。これを問題にする方がおかしい。この演説の初め、機械の不具合で演説を聞くことができなかった人がいたため、はじめからやり直することになった。このとき首相は「日本の機械じゃないよね」と発言、会場の大爆笑を誘った。こう言うユーモアをとっさに言える人物は少ない。祖父吉田茂は「近代の日本の小説で哲学がありユーモアあるのは漱石に尽きる」との持論を持っていたが、麻生太郎もこの血が流れている。祖父が銭形平次や半七捕物帳を愛読したように麻生太郎はマンガを愛読する。
吉田茂が首相の座に就いたのは昭和21年5月22日。67歳の時であった(祖父の誕生日9月22日に麻生太郎は68歳で首相の座に就く)。吉田茂が自由党に入党、総務会長に就任したのがその年の5月16日であった。これは総裁の鳩山一郎が公職追放になったための緊急事態であった(吉田茂が総裁になったのは8月18日)。当時は戦後の人心動揺、物資欠乏、特に食糧の欠乏はひどかった。海外よりの引き揚げ、軍人の復員、戦後の復旧など政府は当面する応急対策に精いっぱいであった。労働争議も多かった。2・1ストの中止命令も出た。昭和22年1月に有名な「不逞の輩」の年頭辞が出る。吉田首相が指したのは「国民全体の苦労の時に乗じて、労働不安を扇動する、いわゆる職業的アジテータであった」これが勤労者全体にたいして「不逞」呼ばわりをしたと受け取られた。失言とはえてしてこんなものである。その年の3月31日衆議院は解散され、4月21日行われた総選挙の結果、社会党が143名で第一党となり自由党は133名で2位に落ちた。民主党(自由党を離党した芦田均・幣原喜重郎前進歩党総裁などが中心幹部)は12余名で第3党であった。ここで問題が起きた。社会党が第一党となったが過半数が取れない。保守党が連立すれば過半数がとれる。「保守連立」の声が出た。なかには「民主党から引き抜いて第一党になれ」という話まで出た。吉田首相は第一党の社会党に政権の座を渡して民主政治のルールを確立すべきだと考えた。それが実現してその年の5月24日片山哲内閣ができた。その後民主党総裁芦田均内閣を経て昭和23年10月15日第二次吉田内閣が成立する。吉田内閣は第5次まで続き、昭和29年12月7日、総辞職して鳩山一郎にバトンタッチする。吉田茂は第一次から第二次まで1年5ヶ月の空白があるとはいえ実に7年間にわたり政権の座に就いた。長期政権であった。
はたして麻生太郎はどうなるか。敗戦直後ほど日本は混迷・疲弊はしていないが、景気は悪く、人は目先の利益にきゅうきゅうとし、公共道徳は地に落ちている。時代は常に激動し、波乱に満ちている。歴史は繰り返すという。自民党は第二党となるのか。その場合どうなるのか、麻生太郎が首相として自民党総裁として民主主義のルールにのっとって的確に処理すれば事は収まる。そのためには何よりも祖父の教訓をかみしめよといいたい。 |
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