2008年(平成20年)7月10日号

No.401

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花ある風景(316)

並木 徹

映画・最後の早慶戦から「海ゆかば」が消えた。

 産経新聞にこんなコラム記事が載った(7月4日)。今年8月に封切られる映画「ラストゲーム 最後の早慶戦」の試写を見ると、なぜか、最後の決定的な部分がすっぽりと抜け落ちていると指摘する。試合が終わって両校のエールを交換したあと期せずして「海ゆかば」の大合唱が起きたのに、その部分がすっぽり消えているというのだ。コラムのタイトルは「海ゆかばが聞こえない」であった。読者の諸姉諸兄はどう思われるか。
 この最後の「早慶戦」は当時の慶応の小泉信三塾長が早稲田の野球部顧問、飛田穂洲に働きかけ実現したもので、昭和18年10月16日、早稲田の戸塚球場で行われた。大学野球はその年の4月、敵性のスポーツということでリーグ解散命令が出て活動停止となっていた。学徒出陣で戦地に赴く学生のために「せめての餞を」という小泉塾長の熱い思いがみんなを動かした。試合は10対1で早稲田が勝った。学徒出陣は慶応が入営者2863名で学部在籍者の67パーセント強、これに予科、高等部の入営者を加えると約3千名とみられる。その出陣壮行会は11月23日、三田で3千名の出陣塾生を迎えて開かれた。一方早稲田は5124名が入営もしくは応召された。その壮行会は早慶戦が行われた前日の10月15日戸塚球場で行われている。
 ニュース映画で有名な明治神宮外苑陸上競技場の学徒出陣壮行会が開かれたのは10月21日(木曜日)雨の日であった。参加校数77校、約3万人であった。スタンドにはこれを見送る各校在学生、応援参加した女子専門学校30校の学生など6万5千人を数えた。早慶戦のスタンドで「海ゆかば」の歌声が起きても何の不思議はない。それが当時の雰囲気であった。それを消し去ろうとするのは現在のいるところから昭和18年10月16日を振り返るからである。コラムは「右であれ左であれ『事実そのものの発言を封ずる空気』(西義之東大名誉教授)は健康ではない」と戒める。「海ゆかば」は確かに昭和12年11月近衛文麿内閣が開催した「国民精神強調週間」に協調して生まれた。この歌は万葉集の大伴家持の「陸奥の国より金を出せる詔書を寿ぐ歌一首」(万葉集巻の第18・4094)より採取したもの。作曲は東京音楽学校教授の信時潔。「日本人の死生観を率直に表現した歌詞とこれにふさわしい荘重な調べはラジオを通じて大いに普及し歌われた。昭和18年春、文部省と大政翼賛会では会合にはこれを歌って聖戦遂行の決意を新たにすることを申し合わせたという(坂本圭太郎著「物語・軍歌史」創思社出版より)。
 事実から目を背けるな。読者、映画を観る人に判断を任せよ。今村武雄著「小泉信三」によれば昭和38年6月、早慶戦2回戦と3回戦を観に行かれ8日の決勝戦では慶応が勝ち優勝を果たしたのを観ている。この時、胆石で腹痛がしていたのにそれを押しての野球応援であった。学殖豊かな経済学者だった小泉信三が優れた気骨ある教育者であったのを今更のように知る。

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