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小さな個人美術館の旅(44) 札幌彫刻美術館・本郷新記念館 星 瑠璃子(エッセイスト) 生前の本郷新に一度だけお会いしたことがある。編集者時代、円空についての原稿を書いていただいたのだが、短い原稿のなかに切りつけるような気迫があって、澄んだ目、骨太の文字とともに忘れられない記憶となっていつまでも残った。いま調べてみると、それは亡くなる前年のことである。 円空とは江戸時代の初めに全国を放浪し遊行した聖(ひじり)の一人で、村々、山々を巡りながら、仏像を彫った。生涯に十二万体造仏の悲願を立て、現在発見されているのはおよそ三千体といわれるが、氏は円空仏がまだいまのように知られていなかった時代に、最果ての北海道や終焉の地となった岐阜を中心に、彼が自らの命を刻むように彫りつけた仏像を訪ねて回っていたのだった。その原稿の中で、氏は次のように書いている。 「私が羨ましいと思うことは、円空には仏への信仰が彼を背後から支えていたということ、その信仰の中で自由を得たということである。ひるがえって現代を見ると、われわれ現代人は、自我との格闘なしには自由がないこと、この矛盾の渦の中での格闘がない限り『彫刻』は造れないこと、この悲惨さの中に投げ出されて、孤我への愛と信を見つけなければ『彫刻』はさまにならないことを知るに到った現代という惨劇の中から見ると、円空は僧を越え、彫刻家を超えて、大いなる『芸術』の世界に入ることができた日本近世史に稀なる人物であったとしみじみ思うのである」(『日本の美』より「円空讃」) 札幌彫刻美術館・本郷新記念館は札幌市中央区宮の森の閑静な住宅街にある。中央区といっても市の中心からはかなりの距離があって、札幌オリンピックで有名な大倉山の麓の緑濃い美しい町に建っていた。淡い水色の空はからりと晴れて透き通った風の吹き抜けるゆるやかな坂道の四つ角で車を下りると、道路をはさんで二つの建物があった。1981年、新しく設計建築された本館と、本郷からの寄贈を受けたアトリエを一部改造した記念館の二館である。
肺ガンのため死期の遠くないことを知った氏は、死の前年の10月、土地、建物、作品の寄贈を札幌市に申し出、翌80年2月、惜しまれつつ東京世田谷で七十四歳の生涯を閉じると、市は隣接の土地も購入して、現在の財団法人札幌彫刻美術館・本郷新記念館が発足したのである。 ありし日のアトリエ・ギャラリーを殆どそのままに美術館としているのがレンガ色の本郷新記念館だ。玄関で靴を脱いで上がると、正面はゆったりとしたエントランス・ホール。左手にかつての応接間やリビングルームを改造したという事務室と接客スペース。右手が展示室の入口だ。まず、モニュマン(記念像)の石膏原型二十数点が置かれた吹き抜けの展示室を回った。大きなものは四メートルもある石膏像が所狭しとひしめきあうように置かれたこのスペースは、氏の生前からこのまま使われていたものという。二階へ上がると三つの展示室があり、吹き抜けの階段をめぐってぐるりと一巡できるようになっているのも氏が美術館になるようにと考えての設計だとか。この日は年に三回行われる展示替のうち「土と火の祭り」「石狩湾シリーズ」と銘打った企画展が行われていた。 札幌生まれの本郷は、夏はたいてい北海道で過ごしたというが、「土と火のまつり」は石狩湾を見下るす小樽春香山のふもとのアトリエで楽しみながらつくったテラコッタで、軽妙洒脱な作風が楽しく、階下の徹底したリアリズムのモニュマン原型と対照をなしている。「石狩湾シリーズ」は、初めて見る油絵小品で構成されており、はじめは画家志望だったという本郷の一面をあらわした明るく屈託なげな作品ばかりだ。 さて、本館の庭の入口近くにお目あての「わだつみ像」が置かれていた。本郷の戦没学生記念像「わだつみのこえ」は全国にあり、東京世田谷美術館のものは見ていたが、私はここの「わだつみ像」にも触れてみたいとずっと思っていたのである。 わだつみ――。それは「海」を意味する言葉だが、戦後間もなく刊行された戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』の扉に掲げられた次のような詩からとった。 なげけるか いかれるか 兵隊には行かずにすんだ本郷だったが、それだけにいっそう学業半ばに戦争に駆り出されて死んだ若き学徒の嘆き、怒り、もだえをどう表現するかで苦しんだに違いない。完成したのは同書刊行の翌年、本郷四十四歳のときだった。破壊と惨苦のあげくに迎えた敗戦。ようやくよみがえった平和の中で、社会主義リアリズムに限りなく近づきながら制作した一連の作品、戦後の代表作の一つだが、この像はその後いくたびか、それはそのまま戦後の日本を象徴するような過酷な運命にさらされることになった。 当初、東大構内に置く予定が「東大は学術功労者以外の像を構内に置くことはできない」と大学側の拒否にあったのがはじめだった。賛否をめぐって多くの議論がまき起った。その後ようやく京都の立命館大学に建ったのが制作後四年目の53年。しかし、こんどは大学紛争の嵐吹きすさぶさなかの69年、一部過激派学生によって台座からもぎとられ、ナワをかけてひきずれ倒され、像の頭部や腕が無残にも破壊されてしまったのだ。北海道大学で起こった思想・信条をこえての運動が実って、立命館像と寸分たがわぬものを完成、北大構内に再建したのはそれから間もなくだった。立命館像が再建されるのは、破壊後七年目のことである。 いま私の目の前に、若々しいブロンズの青年像「わだつみの像」は、にぎりしめたこぶしの腕をまげ、わずかにうつむいて静かに立っている。二度とふたたび過ちを繰り返してはならない。だれもがそう願いつつ、いつも世界のどこかで人々は争い、傷つけあい、殺しあっている。青年の伏せた目は、そんな現実にじっとたえているように見えた。 1905年(明治38)生まれ。のびやかな田園都市で幼い頃から教会に通って育ち、高村光太郎を師に、ロダンやブールデルに影響を受けてアンチ・アカデミックの旗手としてスタートした彫刻家本郷新は、その後もロマンチシズム、ヒューマニズムにあふれた多くの作品を全国に建立しつつ、世を去った。それは円空の所業とどこか似ている。さわやかな風が吹き、真っ白な雲が渡ってゆく戦後五十三回目の夏、北海道のこの美しい記念館へ来て、私は改めてそう思った。
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