2007年(平成19年)3月10号

No.353

銀座一丁目新聞

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茶説

誇るべしイラク派遣自衛隊の軍律

牧念人 悠々

 新聞が書かないニュースを書く、旧聞であるが、いまだ多くの日本人に知られていないので「ニュース」である。サマ−ワから自衛隊が撤収してから8ヵ月がたつ。友人達の昼食会(3月5日)で施設庁長官であった塩田章君から話を聞いた。自衛隊がイラクのサマ−ワに人道復興支援のために派遣されたのは2003年12月から2006年7月までである。10次にわたり5500人が派遣された。この間、(ア)、たった一人の脱走兵もいなかった。(イ)、たった一件の婦女暴行事件もなかった。(ウ)、たった一件の無銭飲食もなかった。これは全世界の軍隊の中で日本の自衛隊だけである。外国のプレスは高く評価する。
 それに比して日本の新聞は批判ばかりする。なぜこの自衛隊の規律の正しさを報道しないのか。批判するだけが新聞の仕事ではない。国際紛争が絶えない現在、平和維持軍の派遣など国際協力は欠かせない先進国の義務である。イラク派遣は同盟国アメリカの要請であった。戦争に行くのではない。「人道復興支援」のためであった。だから「非戦闘地域」に派遣された。宿営地への砲撃は13回、自衛隊の車列も狙われた。立派にその職責を果たした。一人の犠牲者も出さなかった。まさにサマ−ワは小泉首相が言った「自衛隊が活動する地域が非戦闘地域」であった。
 何故自衛隊のイラク派遣が成功したのか派遣群長をふくむ元、現職自衛官達の話をまとめると(1)、駐屯地の選定がよかったこと。これはテロの襲撃でなくなった(2003年11月29日殉職)奥克彦隊の功績だという。別の候補地の話も出たが、奥大使が熱心に調査・情報収集した結果であった。(2)、準備がよかったこと。部族長とのコネもふくめて住民との融和を図った。訓練は平素の訓練がそのまま通用した。(3)、豪、英、米各国軍の支援、協力が適切であった。特に治安維持に当たったオ−ストラリア軍は「日本の自衛隊は我々で守るんだ」という意識が強かった。撤退時には米軍は「絶対に事故は起さない」とヘリコプータによる全面的な協力を惜しまなかった。(4)、基本的には現地住民の対日感情がよかったこと。イラクの人たちは日本、日本人達に対する尊敬の念が強い。大東亜戦争を一国で戦ったこと、戦後の復興のすばらしいことなどに敬意を払っている。自虐史観に陥っている人々に聞かせた話である。(5)、全国からの支援があった。10次の新発田連隊は新潟地震の際災害復旧に出動した部隊だけに災害地から「コシヒカリ」が90キロ送られたほどであった。
 総合的な結論として「自分の国は自分で守る」 気概のない国民はだめということであった。特に石油で浮かれているクエートの国民を見るとつくずくそう感じたという。志半ばで倒れた奥大使の言葉を思い出す。「今やらなければ何時やるのだ。今に精一杯死力を尽くせ」的外れの批判ばかりばかりしている日本の新聞にこの言葉を贈る。

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