2007年(平成19年)3月10号

No.353

銀座一丁目新聞

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安全地帯(172)

信濃 太郎

「行け、生きろ、生まれ変われ」

  ラデュ・ミヘイレアニュ監督の映画「約束の旅路」を見る(3月2日・日本記者クラブ試写会・3月10日から岩波ホール上映)。映画の原題は「行け、生きろ、生まれ変われ」である。原題のほうが映画のポイントを表現している。
 1984年11月21日から1985年1月6日まで「モーセ作戦」がひそかに決行された。これはエチオピアにいるユダヤ人(ファラシャと呼ばれる)をイスラエルに空輸するというものである。1984年7月FAOの農相会議でアフリカの飢餓克服に自助宣言餓出されたように、1980年代、アフリカは日照り、飢餓、戦乱に襲われて26ヶ国で何千万人という人々が悲惨な状況にあった。スーダンの難民キャンプに身を寄せていたある母親はエチオピア系ユダヤ人だけが脱出できるのを知って9歳の我子にユダヤ人を名乗ってイスラエルに行くように命じる。「行きなさい!生きて、いつかきっと」 しがみつく子供に母親はいう。子供にとって恐怖と苦痛の旅立ちであった。敗戦時の満州の日本人難民の親子にも似たような事態が起きている。「モーセ作戦」という最初の空輸で8000人のエチオピアのユダヤ人が救われた。4000人はエチオピアとスーダンで埋葬された。殺され、飢え、渇き衰弱から死んでいった。数千人の孤児が約束の地に向った。
 イスラエルに到着したシュロモと名付けられた少年はヤエル・ハラリとヨラム・ハラリの養子になる。新しい両親には10歳の女の子と7歳の男の子がいる。こんな場面が出てくる。ヤエルがシュロモを学校に迎えに行くと、校長が「アフリカの病気を懸念して親御さん達が転校すると脅かしている」というのである。すると、ヤエルは回りを遠まきにしている母親たちに「わたしの子は世界で一番きれい、分かる?あならがたの子よりもよっぽどよくできる。健康そのものよ」「吹き出物があるわ、たしかに、これは不安だからなのよ!あんたがたって最低ね、とんでもないわ。病気なんかない、全然。この子は健康そのもの。見事なぐらい。あんたがたが知りたいってことってこういうことでしょう?」と、いきなりヤエルはシュロモの顔をなめまわした。周囲に言い放った。「シュロモは転校しない」。最後に母親達に言って言葉は「パショル!」。このように理不尽なことをいう母親たちに、啖呵を切る日本人の母親はまずいない。こんな母親がいるといじめ問題など直ぐ解決できる。
 シュロモはサラと恋に落ちる。サラの父親は反対する。シュロモは医者になるべくパリへ行く。25歳で医者の免許を取った。イスラエル軍の軍医として従軍。傷ついたパレスチナの少年を手当てをすると少年の親が銃を向けて叫ぶ。「この子に触れるんじゃねえ、ユダ公。地獄へ落ちろ。触れるんじゃねえ」。特殊部隊に戻ると中尉に怒鳴られる。「バカヤロウ。あいつ等の手当てをするなこっちのほうが先だ。分かったか、黒め」。シュロモは背後を銃弾でやられる。エルサレムの病院で一命を取り留める。看護していたヤエルがいう「シュロモ。サラに愛しているといいなさい。それをあの子は10年待ってていたのよ。十分でしょ。さもないと命がないわよ」。二人はやっと結婚を果たす。サラの妊娠を知って初めてシュロモは「ユダヤ人でない」と告白する。すべてを捨てて結婚したサラは怒って家を出る。仲立ちをしたのはヤエル。実母に優る親の愛情である。サラにいう。「シュロモのトラウマも考えてみて、絶望した母親が、たった一人の子供を救うためだったの。失ってしまうかもしれない、もう会えないかもしれないけれど、心に決めたの。恋をしていたから、心が乱れてしまって、愛する人に重い秘密をうちあけられなかった、失うかもしれないておそれて・・・・みんな愛していたからなの、サラ。お願い、このままにしないで・・・・」
シュロモは国境なき医師団の一員としてアフリカの大地を踏む。そこで母と再会する。満月に、残月に幾度となく母のまなざし、面影をみたシュロモであった。実に17年ぶりであった。出エジプト記は「なんじの父と母を敬え。これはあなたの神、主が賜る地であなたが長く生きるためである」と諭す(20章12)。それにしてもアフリカの母親のなんと強いことか驚嘆する。

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