2007年(平成19年)3月10号

No.353

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自省抄(60)

池上三重子

  2007年1月2日(旧暦11月14日)火曜日 雨のち晴

 新春二日、書き初めの感慨なきにしもあらずと心に呟きながら耳にカササギの声、記憶の雪の裏庭、そうして忽ちその雪が父によって掃かれ、掃かれた雪は井川にとけて跡はいつもの変わらない土!? 籠地垣内の雪の日のみの美しい景観はその外側の庭ともどもに日常に戻ってしまう。
 子供ごころは唖然となり悲しんだ。ひとりの胸にしまいこみ、母にも姉にも告げなかった。
 末っ子の私は「内はたがりの外すぼり」型。カラタチ垣が境するだけの大莞高等小学校の運動場で、県道沿いの子供らが遊んでいても、自分からすすんで仲間入りする勇気はなくポカンと佇んでいた。
 子供大将の上級生スーちゃんはミツさんとこの娘で活発な元気はつらつ、連続発射の大量のことばは機関銃の弾丸だった。小父さんはイクさんと呼ばれてどことなく影が薄く、子供の目は「ムゾナゲ」と憐れんだものだ。可哀想の意味である。栄枯盛衰夢に似て英雄墓は苔むしぬ……昔の国語読本「鎌倉」の一節が思い出される。
 妙子先生がなつかしい。ショートスティ二泊が禍して頭脳の異変をきたし、脳梗塞に加えて脳出血が起きたのだった。
 大柄の身体と美貌、そして含羞の人だった。
 いつもは、さっさっさと軽快な歩行が俄に重々しくなるも医師は異常なしと診断。先生はその区切りをつけるための入院と思い、「生き返った」とおハガキを下さったが、容姿のように端麗だった文字が歪なのに愕いたものである。しまいには、難聴のお耳に会話らしい会話は不可能だったがご自身、発症を知らぬまま知らされぬままの九月一日、誕生日のご逝去。享年八十八。先生はだいじな先輩であり、父方のふたいとこに当たる。
 妙子先生との永別は哀しい。ほんとに悲しい。
 妙子先生といえば水落礼子先生の恩情を私は歳月ながく享けてきた。
   天草の畦の昼餉やキンポウゲ
 教え子の坂井満ちゃんと一緒に天草在の私を見舞って下さってから、どれくらいたつのだろう。詩性の豊かさは生得のものと思われるが商家のわが家にない蔵書に埋もれ、ご両親教師のもとに成長された。いっしょに藤村や三好達治の詩をそらんじつつ楽しんだものだった。その礼子先生も、現在はケアハウスに入所しておられる。
   釣り人の腰を流るる鮎の川
 この句も、当時の先生の作品……そんな私の感慨をよそに、正面のカレンダーの「亥」ならぬ猫ちゃんは無邪気な表情。木下鈴子ちゃんが猫大好き人間の私に贈ってくれたものだ。そして正面の壁には武下洋子ちゃんが掲げていってくれた墨書「亥年・二〇〇七年・平成九年」が大らかな表情を見せてくれている。
 三輪真純先生は、わざわざ私一人のために上州からおいで下さった! 尊し、貴し!
佳き人に恵まれて八十三年の新春。明後日がその日。母上よ、私の誕生は霜月二十九日でしたね。
 只今四時十分。年賀状これより拝見!

1月7日(旧暦11月19日)日曜日 くもり

 自省抄、と漢字三文字をつづるときのおのずからなる微妙な緊張感、いいものよ。
 七草。唐ん「草」ならぬ「鳥」の渡らんうちに叩こう叩こう、と、もごもご口を動かしながら包丁を爼の上に。爼の上には母が昨夜ゆでて用意の若草七種がすがたすらりと横たわって、家族みんなのお手拝借と待っていた。
 板の間は冷たい。ずーんと心頭に達する足裏の冷寒。それでも身顫い止まぬまま冒頭の文句をくちずさむ。民間に早起き仕事仕事の意を含めた幕府の意図に始まるか、日本人の働き好きの表れか。
 芹、薺、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞ春のななくさ。春の七草に初めて対面したのは天草であった。仏の座には感動した。仏の一体いったいがとり囲む風情のゆかしさに触れて知ってはいたものの、生い立った村の道端のに比べるとぐっと新鮮。しみじみと見つめた。一座いちざが仏まします座、それがぐるりとりまいて円環。名付け親は誰? 杳い祖先か牧野博士か。
 土手の摘草は楽しかった。水車かけ場の窪んだ空き地や南面する土手に這いつくばい、まだ水分を吸いあげてない赤茶っぽい芹を見つけた娘ごころは歓喜した。茣蓙専用の剃刀でも根元から採りえず一茎一茎がばらばら。裏の不図口で揃える母と私、私はばらばらの言い訳をした。
 母は言い訳嫌い人間! 私は父似か?
 血液型ABが父方のものと知ったのは妙子先生の弟妹方すべてがそう、と聞いたから。母はA型。兄と姉は? 寂しいなあ……

 私の八十三の誕生日・一月四日には森田良ちゃんと下川サダちゃん来室。花束は黄色いさくらんぼならぬバラ、赤いカーネーション、千両、万両、カスミ草等々。初ちゃんは数の子と紅白ナマスを携えて。ありがたい教え子・両開三人組それぞれの志である。足立威宏先生ご夫妻の贈物はいつも豪勢、今年はミンクの衿巻き。母上の長い歳月に亘るお心尽くしと併せて瞼が潤む。
 昨日六日は小寒。母は「小寒の雪は大寒に添くじゃっつろ?」と呟いていたものだ。寒晒粉をこしらえ、家族揃ってフウフウ吹きさましつつお代り何杯もした。おいしかったなあ。白玉にもした。挽き臼で母とむき合いにゴーロゴーロ挽いた寒晒粉、南の庭の箕に干されている光景が浮んでくる。
 さつま芋をから芋と呼んでいた。
 寒の朝は起きぬけに肌着一枚のまま釜屋へ駄々走り、母の生家の祖父が藁編みの腰掛を作ってくれている上に、母が「くど」の火で温めて丸めておいてくれた着物を着て、藁灰の中からほどよく焼けたから芋を長い竹火箸であやつりながら転がり出す……
 あの頃から幾年月、八十三媼は回想の糸車を廻し続ける。



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