1998年(平成10年)6月20日(旬刊)

No.43

銀座一丁目新聞

 

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小さな個人美術館の旅(39)

碌山美術館

星 瑠璃子(エッセイスト)

 長野自動車道を豊科インターで下りて、澄み切った空に連なる北アルプスの山々を眺めながら国道一四七号線を行くと、ほどなく穂高町に出た。国道は松本から糸魚川にいたるJR大糸線とほぼ平行して走っていて、碌山美術館は穂高駅近くの線路ぎわにある。線路ぎわといっても、列車は1時間に1本ののどかなローカル線。森閑と静まりかえった安曇野の一隅である。美術館前に下り立つと、ひんやりと涼しい風が木々の間を抜けていった。こぶし、かつら、やまぼうし、白樺、ポプラ……。ほっそりと丈高い木々の梢を透かして、鐘楼の屋根の風見が初夏の日差しを浴びて光っている。

 ここを訪れるのは、これで何度目になるだろう。来るたびに少しずつ印象が違った。初めて来たのはもうずいぶん昔の冷たい雨の降る秋の終わりで、こんなところにこんなにひっそりと立つ美術館があることにびっくりしたものだが、今度はぜんぜん違った。それは季節のせいばかりではない。美術館が活気に満ちていく様がわかるのである。

 「十年ごとに、新しい建物がひとつずつ出来ましたからね」

 と、学芸員の千田敬一さんが笑いながら言う。なるほど、蔦のからまる古びたレンガづくりの本館の他に新しい白亜の陳列館が二館、事務所棟、グズベリー棟と呼ばれるショップハウス、受付棟などが広い敷地内にほどよい間隔で立ち、自然のままの趣を生かした庭にはそこここにベンチが置かれて、静かに本を読んでいる人や、木々を見上げて佇んでいる人がいる。近年の来館者は年間十五万人とか。

 「道もよくなって、ずいぶん便利になりましたね」と言うと、

 「でも、大気がゆるんでしまった。むかしはもっときりっと冷たくしまった空気があったのだけれど」

 と、千田さんはいかにも残念そうに答えた。ぜいたくなことを言う。安曇野の空はこんなに美しく澄み渡っているというのに。

 日本の近代彫刻の扉を開いた萩原守衛・碌山の作品と資料を永久に保存し、公開するために碌山美術館が開館したのは、1958年のことだ。郷土が生んだ不生出の彫刻家の足跡を残したいと地元長野県の教職員が中心になって募金活動をくりひろげ、小、中学生を含む三十万人近い人々の熱意が実って誕生したのだという。高村光太郎、石井鶴三ら友人たちの熱い支援もあった。美術館入口の扉には、「この美術館は二十九万九千百余人の力で生まれたりき」と刻んだメダルがはめこまれていた。

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碌山美術館

 「当時あの辺りは、食べるだけでもやっとという士地柄だったはずです。近代彫刻の開拓者といったって、碌山は明治の終わりに夭逝して、いわば功なり名遂げたという人でもなし、残された作品もわずかだった。そんな彫刻家の美術館をつくるなんて、美術館ばやりのいまだって私なら二の足をふんでしまう。四十年の歴史の中には、受付の女性の給料も払えなかった時代もあったと聞きます。持続する情熱と気迫が守り育てたあの美術館こそほんものの財団法人、ほんものの個人美術館です」

 と、自分のところのことよりも熱っぽく語ったのは白馬美術館の館長だが、美術館経営の困難を知る人の言葉として私はそれを聞いた。

 碌山・萩原守衛は1879年(明治12)、穂高町(当時は東穂高村〉に農家の五男として生まれた。当時、村には新時代と取り組む意欲的な青年たちがいたが、碌山の生涯の師となった穂高村高等小学校の教員、井口喜源治もその一人で、井口とともに青年運動の中心となったのが後に新宿中村屋を開く相馬愛蔵だった。碌山は昼の農作業が終わると、村塾の夜学会に参加し、新しい思想に触れていった。そして愛蔵のもとに仙台から良(黒光)が嫁いでくると、彼女が「嫁入り道具」としてもってきた一枚の油絵、長尾杢太郎の「亀戸風景」を見て芸術への目を見開かされる。初めて見た油絵だった。以来、画家への思い絶ちがたく、相馬良の紹介で彼女の母校明治女学院の校長、岩本善治を頼って二十一歳で上京、一年後、渡米して皿洗いなどをしながら金を貯めてフランスへ渡ったのは二十五歳の時だった。彼のその後の運命を変えるロダンの「考える人」にめぐりあったのは、さらにその翌年。魂が震えるような感動に、彼は彫刻家として立つことを決意したのである。

 庭側の高窓から差しこむ柔らかい光に満ちた本館展示室には、碌山の生涯の全作品十二点が並んでいる。ロダンから直接の教えを受け、その影響のもとにつくられた「女の胴」「坑夫」は高村光太郎の強いすすめでパリからもち帰ったものというが、その他は全て帰国後わずか二年たらずの作品である。恋に狂い、あやまって愛人を斬ってしまった「文覚」の像、絶望する女性「デスペア」、最後の作品となった「女」。この三点は、愛の苦悩をかたどった三部作といわれるものだが、なんと力強く、しかも静けさに満ちた作品だろう。この頃、碌山は相馬良への思いを絶ちきれずに苦悩していたというが、「女」を発表してひと月ほど後、実然大量の血を吐いて、忽然と世を去ってしまう。全身全霊をもって駆け抜けたかのごとき三十二歳の生涯だった。

 礼拝堂を思わせるその簡素な部屋で、私はしばらくじっとしていた。もう何回も見た作品だというのに、何度見ても見飽きるということがない。この感動はいったい何なのだろう。立ち去りかねて立ち尽くしていると、柔らかい音色で鐘が鳴った。毎日、朝と昼と閉館の夕ベに打ち鳴らすのが日課という。そうか、ここはもしかしたら祈りの場なのかもしれない、愛し、苦しみ、悩む人々のための。そう思った。

 碌山と関係の深い芸術家のための第一、第二陳列館では、この七月から八月末にかけて、「光太郎・知恵子」展が開かれるという。芸術とは何か、芸術に生きるとはどういうことかを、もういちど原点にもどって探りたいとパンフレットにあった。禄山美術館ならではの展観となるに違いない。

住 所: 長野県南安曇郡穂高町大字穂高5095−1  TEL 0263-82-2094
交 通: JR大糸線穂高駅下車徒歩7分,車の場合は長野自動車道豊科インター下車20分
休館日: 月曜日(祝日の場合はその翌日)と年未年始 5月〜10月は無休

星瑠璃子(ほし・るりこ)

東京生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業後,河出書房を経て,学習研究社入社。文芸誌「フェミナ」編集長など文学、美術分野で活躍。93年独立してワークショップR&Rを主宰し執筆活動を始める。著書に『桜楓の百人』など。

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