2006年(平成18年)10月1日号

No.337

銀座一丁目新聞

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追悼録(252)

「三木正さんの遺稿を読む」

  毎日新聞の先輩、三木正さんの遺稿 「私の半生」と「世相二百六景」(昭和五十年代の日本)の二冊が17回忌に当たる今年8月27日に遺族、中里恵さん(長女)によって出版された。三木さんは私にとって社会部、サンデー毎日の敬愛する先輩であり、いろいろ教えていたただいた人生の師であった。
 子供時代をよく記憶しているのには感心する。三木さんの性格がお父さん譲りのように思える。お父さんは日刊の夕刊紙「姫路日報」を経営しており、地元から出ている清瀬一郎代議士を支持する。父に連れられて兄と一緒に清瀬の郡部の選挙演説会場めぐりをする。清瀬一郎といえば戦後は東京裁判の弁護団副団長で内外の憎悪の焦点に立っていた東条英機の主任弁護人であった。裁判では裁判長を忌避し、法廷の合法性について異議を提出した。何れも却下されたが、職業倫理のすぐれた実践者であった。
 小学生のころ小遣いは一日一銭か二銭であったと、なつかしい駄菓子屋の話が出てくる。駄菓子屋の商品は一銭が原則であった。6厘で仕入れてきて一銭で売るのだから薄利多売である。その駄菓子屋から悪童連中が示し合わせて万引する。古物商の親爺さんにばれてどやしつけられて返す羽目になる。山陽本線の鉄橋を歩いて渡る冒険談もある。それを「夏休みの思い出」として作文の課題に書く。子供のころは小説家を夢見た。
 古賀千年という幾何の先生が出てくる。俳優の山村總(本名、古賀寛定)のお父さんである。家計が苦しくなり始め授業料が納期におさめられなくなった。納期が遅れると先生が授業中読み上げるのだが、古賀先生は授業が終わった後教室の外でそっと告げる心優しい先生であった。その先生がなくなった時、押入れから厳重に封をしたつづらが出てきた。開けてみたところ中に春画、春本が一杯出てきたという。この話を山村聡の随筆で読んだ三木さんは先生がいっそう懐かしくなったという。もっとも、昔武家屋敷では屋根裏に春画を沢山おいたり、鎧兜の櫃の中に入れたりした。火よけのまじないのためである。春画は濡れるからである。
 中学3年生を二度やることになって、少しぐれても、英語の時間にたった一人だけ答えられたのをきっかけに立ち直おる。さらに1年と2年の英語と数学の教科書を読み直したというのは立派である。家業を手伝いながら4年終了で姫路高等学校に合格を果たし、落第を取り戻す。伝統ある姫路中学で落第生が4年終了で高校に合格したのは三木さんが始めてであった。後輩達に「頑張り屋の三木伝説」を残す。自分の性格について「照れ屋で、見栄っ張りで、臆病であった」という。
 東大の卒論のテーマが源氏物語とは意外である。小野秀雄先生の進めで毎日新聞を受験、合格する。昭和18年10月1日に見習生として入社。採用は見習生10人、試用12人であった。月給に10円の差があった。同期生の奥源三に連れられてはじめて亀戸で遊ぶ。文化部で修行中昭和19年3月12日中部第四十六部隊(歩兵36連隊)へ入隊する。3ヶ月後北支派遣軍第百十師団鷺兵団に配属。ここで同姓同名の間違いから戦死したことになる。毎日新聞の昭和19年12月20日付社報には「文化部初の戦死者」の見出しで三木さんの死亡記事が出る。それには「三木正兵長は10月4日北支河南省登封県韓許村で戦死した旨姫路市役所に公報があった。(中略)精励恪勤将来を嘱望されていた」とある。終戦は保定幹部候補生第13期生として訓練中に迎える。複員は12月10日である。姫路は空襲で一面焼け野原であった。兄も弟もすでに復員しており、戦時中病死した父を除いて家族全員無事であった。「運不運が紙一重の時代、自分は本当に運が良かった。これからの人生はおまけとだと思った」としるす。翌年毎日新聞に復職する。学芸部時代の話は聞くべき話が多い。城戸又一部長の「今のうちに一流の人物に会っておけ」という忠告はなるほどと思う。天野貞祐さんの「青年学徒に愬う―"永遠の相"を見よ」の論文(昭和21年7月29日掲載)は三木さんが提案して当時一高校長の天野さんに依頼したものであった。当時、2ページの新聞に400字詰め10枚という異例の論文であった。東大教授出隆の共産党入党に絡んで「思想がニュースになるか」という問題も提起する。社会部に来たのは昭和23年7月とある。私が社会部で察回りを始めたのが6月であったからほぼ同じ頃一緒に仕事をしたことになる。12月23日東条英機ら七戦犯が処刑された時、三木さんは教誡師花山信勝さんの取材のために張り込んだという。私は先輩の記者に連れられて巣鴨刑務所に張り込みをさせられた。人間の記憶とはいい加減なもので私が一ヶ月も取材した三鷹事件(昭和24年7月15日)でも三木さんも狩り出されている。現場の本部となった交臨倶楽部では10名ほどの記者が寝泊りした。それでも三木さんの記憶は無い。この事件では警察に強いK記者だけが情報を取ってきた。あるとき、三木さんが「明日何か重要な動きがある。一斉検挙か」という情報を報告したが、K記者が「明日は何も無い」ということで三木情報は捨てられた。司法記者を経て三木さんが頭角を現すのは「造船疑獄」からである。惜しくもそれ以後が未完となっている。残念でならない。
「世相二百六景」は雑誌に連載されたエッセイである。今読んでも教えられるところが多い。簡潔、達意、平明なので文章の勉強にもなる。時の流は早いもで三木さんがなくなってはや17年。静かにご冥福をお祈りする。

(柳 路夫)

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