2006年(平成18年)10月1日号

No.337

銀座一丁目新聞

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花ある風景(251)

並木 徹

「異色の栗林忠道中将論」

  大東亜戦争の島嶼作戦で日本軍の損害より米軍の死傷者が多かった唯一の戦闘が硫黄島戦であった。その戦闘の総指揮官が栗林忠道中将である。「完全占領まで早くて5日、遅くても2週間」と豪語していた米軍海兵隊の予想を裏切って4週間以上も激しい抵抗を示して玉砕した栗林中将は第二次世界大戦における世界名将十人のうちの一人と数えられている。その栗林中将を留守晴夫著「常に諸子の先頭に在り」(慧文社)はアメリカの南北戦争の戦史をひもとき北軍、南軍の置かれた立場から語り、古今東西の文献から日本人の「権力迎合主義」「視野狭隘な日本的真実」などの国民性を指摘しながら栗林中将の人柄をたたえる。まことに異色の人物論を展開する。
 福沢諭吉は日本人を「ゴム人形」と評した。自主自律性が弱く「伝統慣習の奴隷」になったり、「世論、世評、他人の手前」をはばかって行動したりするからである。ところが南北戦争で敗れた南部は「ゴム人形」ならざる国民であったという。作家ウィリアム・フォークナーの言葉を引用する。日本人は南北戦争を国内戦と思っているが、国家間の戦争と同じように考えられている。「南部は敗れた戦闘によって荒廃せしめられただけでなく、敗北と降伏に続く10年間、征服者たちは南部に残された 僅かなものまで略奪せずにおかなかった」という。南部が敗戦から学んだものは人間に関する「普遍的真実」である。それは「戦争も悲嘆も絶望も苦悩も、人間の忍耐する力を、希望を抱く力を、け決して破壊するものではない」と言うことだ。その証拠は人間が今なお作り続けている芸術だという。芸術こそは「災厄の下で不屈の忍耐力と勇気とを発揮した先人の歴史を留め、希望を抱くことの正当性を主張するために。人類が発明もしくは発見した、この上なく強靱で永続的な手段」だからだ。だからこそ世界に通用する「南部文学」が誕生したとする。西洋人の本質は「真実を追う狩人」である。栗林の硫黄島ににおける統率は「真実を追う狩人」の伝統を持つアメリカ軍人に舌を巻かせるほど合理的かつ徹底的なものであった。それなのに「ゴム人形」の日本は硫黄島守備隊将兵2万1千の見事な戦いぶりを忘れ去っている。著者言う。「愛国心は卑しむべきものでもないし人間性に悖るものでもない」。「南軍の兵士と同様、敗れたりといえ同胞と故国のために命懸けで戦ったのだ」。今の日本人はその愛国心に疑問を持つ。こんなばかげた話はない。
 玉砕前、栗林中将は「最後の戦訓」を大本営に打電する。「防備上さらに致命的なりしは彼我物量の差懸絶しありしことにして結局戦術も対策も施す余地なかりしことなり。特に数十隻よりの間断なき艦砲射撃並びに一日延べ1600機にも達せしことある敵機の銃爆撃により損害続出せしは痛恨の極みなり」
著者はその行間に「爆発せんばかりの怒りを、けんめいに押し殺している」に相違ないと指摘する。これは軍中枢の「すべてを主観的に見る日本の伝統」のしからしむる所である。アメリカの陸大を主席で卒業した山内正文中将がワシントン駐在武官の時「アメリカの戦力を軽視するな」と再三警告したのを「山内の対米理解は国策に合わない」として在任1年半で更迭されたのを見ても判る。陸大を2番で出た知米派の栗林にしても重用された形跡はない。
 ゲティスパーク戦で北軍最大の危機を救った英雄メイン第24連隊長ジョシュア・チェンバレン大佐はいう「戦争は、それに参加する者の品性を験す試金石だ。駄目な人間はますます駄目になり、立派な人間はますます立派になる」
戦後60年、日本人は栗林忠道中将の名前を忘れてなならない。

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