2006年(平成18年)10月1日号

No.337

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安全地帯(157)

信濃 太郎

日の丸に向って立ち国歌を歌うのは当然だ

 メキシコオリンピック(昭和43年10月)の際、最後の種目、陸上の華といわれる「マラソン」で君原健二選手が銅メダルで入賞、メーンスタジアムのセントポールに日の丸の旗が掲揚され、君が代の調べが流れた時にはジーンと胸にくるものがあった。異郷の空で聞く君が代の調べは格別であった。私には国旗・国歌が「侵略戦争のシンボルで戦前を思い出させる」というのは屁理屈としか思えない。
 東京地裁が「国旗・国歌強制は違憲」という判決を下した(9月21日)のにはあきれ果てるほかない。今の日本人は国旗に敬意を表し、国歌を知らない者が多すぎる。しかも「憲法が認める思想・良心の自由を侵す」というに至っては驚くほかない。国旗・国歌を尊重するのはどこの国でも当然のこと。国民として当たり前である。外国人が不思議に思うのは多くの日本人が国旗掲揚にも国歌斉唱にも無関心・無感動であることだ。日本人がこのようになったのは戦後教育の故である。
 今回の判決は卒業式、入学式などで、日の丸に向って起立し、君が代を斉唱するよう義務付けた東京都教委の通達は不当な強制に当たり、憲法が認める思想・良心の自由を侵し、教育基本法にも違反するとして処分の禁止や賠償を都側に命じた。判決は表面上、日の丸や君が代を軽視していない。「国を愛する心を育てるとともに国際社会で尊敬、信頼される日本人として成長させるため、国旗・国歌を尊重する態度を育てることは重要である」といっている。その尊重する態度を育てる「教育現場」が荒れているのだ。裁判長はその教育現場を見た事があるのか。訴えを起した401人の教職員にはそのような気持ちが毛頭ない。むしろ国旗を掲揚しないよう、国歌を歌わせないよう子供達に教えている。このような状況の中、どうしたら国旗・国歌を尊重できるのか、その一つの方法が都がとった措置である。必要欠くべからざる措置で「不当な強制」ではない。東京都が控訴したのは当然である。戦後60年余、日本は日の丸の旗を掲げ平和国家として国際社会で活躍、国際スポーツ界でも国旗を掲揚し、国歌を流して健闘、「国際社会で尊敬、信頼される日本人」としての実を示して来た。日本人である限り、国旗掲揚・国歌斉唱を否定すべきではないと思う。判決が「世界観、主義、主張に基づいて規律、斉唱したくない教職員もいる」として「拒否の自由」を認めたのは論理矛盾である。さらに、判決は言う。「日の丸、君が代は明治時代から第二次大戦終了まで皇国思想や軍国思想の精神的支柱として用いられたことがあることは否定し難い歴史的事実である」確かに戦前は祝祭日には日の丸の旗を掲揚し、君が代を歌った。それは日本人としての証しであった。当時、軍国少年の私の精神的支柱は杉本五郎中佐(陸士33期)の「大義」であった。その精神的支柱は人、様々のはずである。それを画一的に付和雷同的に「日の丸・君が代」にかぶせるのはいかがなものか。歴史を知らなさ過ぎる。
 アメリカに「歴史の試験」についてジョークがある。「ジミーは歴史の試験うまくいったかしら」と叔母さんがたずねると母親が答えた。「いいえ、あまり良くなかったの。でもあの子が悪いんじゃないわ。あの子が生まれる前に起こったことを質問されたんですもの」
 裁判官はそれでは許されない。生まれる前の歴史についても勉強しなければならない。しかも判決文を自分の言葉で書かねばならない。

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