2006年(平成18年)9月10日号

No.335

銀座一丁目新聞

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追悼録(250)

「現職の編集局長が死んだ」

  「寒々としたことばかりの社会で/歓喜の瞬間を待つ心の準備を/足踏みしながら整えたことがあるのか・・・・」と阿久悠さんの「甲子園の詩」をスポーツニッポン新聞が報じた8月22日、編集局長、宮坂直人さんは越中島の本社玄関先で倒れた。そのまま意識が回復せず26日病院で死んだ。急性心筋梗塞であった。享年58歳。編集局長になったのが8月1日であった。阿久悠さんの原稿も宮坂さんが直接頼み込んだものであった。「甲子園の詩」特別篇の2回の原稿は決勝再試合によってはからずも3回に伸びた。阿久悠さんはその詩に添えて書く。「人々は時代の中からシンパシーの対象を見つけ出す名人なのだ。それが早実であり、先輩の王貞治であり、そして斎藤祐樹投手であった。人々は誰もが心を託すものを探す」これこそジャーナリズムの本質である。新聞こそ時代の中からシンパシーを見つけてきて読者にいち早く報道するのが仕事である。それなのに新聞はその読者より遅れているのが現状である。新聞が売れるはずがない。その現状を打破しようとして無我夢中になって働いていたのが宮坂編集局長であったように思う。
 編集局長職はどんな職か。紙面制作の編集面での責任者である。新聞が時代を映す鏡だとすれば常にその鏡の表面を磨いておかねばならない。鏡を磨く役が局長の役目だと思う。私は毎日新聞東京本社の編集局長を僅か8ヶ月しか勤めていない(昭和52年4月から11月まで)。私の時、「ひと」の欄を一面に出した。「ひと」もニュースだという考えからである。「その 人が今何を考え、何をしようとしているか」は価値観が多様化し、時代が混迷している時、読者の参考になり、生きる勇気を与えることになる。私に提案したのは整理本部長の池田龍夫君と編集委員の内藤国夫君(故人)の二人であった。実現してみるとその当時は好評であった。私がやめてからすぐに元に戻った。夕刊で「同時進行ドキュメント」の連載を掲載したのも私の時であった。これは編集委員、鳥井守幸君の提案であった。書く記者は苦労したが中味は非常に面白かった。この手法は今でも毎日新聞の紙面に生かされている。要はみんなで知恵を出し合えばよい。今はその知恵の出し合いが足りないように感じられる。
 宮坂さんの葬儀(8月29日通夜、30日告別式・町屋斎場)は盛大であった。式場にはスポーツ界、芸能界から弔意の花が所狭しと飾られた。参列者も後を絶たなかった。宮坂さんはやりたかった事が多かったに違いない。就任一ヶ月にもならないのに挫折したのはあまりにも残酷である。運命というほかない。

   詩残し南無阿弥陀仏友逝けり 悠々

(柳 路夫)

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