安全地帯(155)
−信濃 太郎−
靖国神社の末寺として「国民祖霊社」の創建を
友人のお医者さん、宇井豊君が日頃から靖国神社境内に末寺として「国民祖霊社」を創建して欲しいと念願している。私の頭の中には「靖国神社と首相の参拝問題」しかない。宇井君のような発想は浮かんでこない。そういう意味では尊敬する。靖国神社には嘉永6年以降の明治維新当時の国事殉難者と対外戦争での戦没者が祭られてある。嘉永6年(1853年)というのはペリ―が黒船を4隻率いて日本に来航した年である。幕末の国難はここから始まったとする。あまり知られていないが、境内には昭和40年に立てられた末寺「鎮霊社」がある。嘉永6年以降の全世界の戦争犠牲者(湾岸戦争の外国人犠牲者も含まれている)、会津の白虎隊、西郷軍の将兵、大東亜戦争での空襲、原爆などの直接の犠牲者、それに東京裁判の「昭和殉難者」も祭られている。建てたのは32年間靖国神社の宮司を勤められた筑波藤麿さんである。ここは一般の人々の参拝が許されていない。新たに「国民祖霊社」を創り、嘉永6年以降今後の国民をもふくめて総ての日本国民の死後の霊を祀ることを宇井君は願う。
宇井君は言う。「世界の国々は自国の戦没者のみを顕彰、慰霊している。日本は一国主義ではなく世界平和が目的であり、鎮魂社を建立し敵軍の死者はもちろんのこと世界の戦没者も祀った。これは日本の古来の伝統文化であって全く不自然ではない」。今日まで日本を支えてきた、またこれから支えてゆく総ての日本国民の死後の安住の場、こころのふるさととしてさらに「祖霊社」を実現したいと靖国神社に訴えている。
宇井君には個人的な思いもある。昭和20年3月末、陸軍航空士官学校59期生の士官候補生として操縦訓練のため満州に渡る。本土決戦のための特攻飛行訓練であった。その年の正月、宮城二重橋前で軍人勅諭を奉読した後、靖国神社に参拝した。先輩の英霊に「次はそちらに参ります」と、後に続くことを誓った。敗戦となり、その志は挫折した。ここに60年。「後に続く」と誓いながら、その約束を果たさないまま成仏するわけにゆかかないという思いが強い。つまり、宇井君には自分が死んだ後、国に殉じた英霊と一緒の境内に立つお社に祭られたいという思いがある。その思いが国民總氏子的な「国民祖霊社」創建に結びついたように思われる。そいうお社ができれば私も祭られたい。 |