戦史作家・牧野弘道さんの話を聞いた(8月23日・靖国会館)。弘道さんの父親は私たち59期生が陸軍予科士官学校在校中の校長で、昭和20年7月15日、16師団長としてフィリッピン・レイテ島で戦死された。弘道君の兄一虎君が私と同じ区隊であった。一虎君は戦後医者をしていた。弘道さんは早稲田を出た後、産経新聞に入社、平成12年から社長に進められて戦記ものを書くようになった。席上「フィリピン少年と日本の将軍」(第二次大戦と牧野中将の思い出)という冊子を戴いた。そこに意外な事が書かれてあった。戦前レイテ島で財を成した実業家の孫のフレディ・L・アニードさんがレイテ島タクロバンに司令部を置いていていた16師団の牧野中将にご馳走になり可愛がられたというのだ。今年の4月、オルモックで牧野中将の三男弘道さんと劇的な対面を果す。フレディさんは日本軍が占領時代祖父の屋敷に滞在、自分を可愛がってくれた牧野中将の家族に会いたいと思っていた。今年の4月1日、地元ラジオ局の朝のニュースで牧野中将の息子、弘道さんが編成した日本の慰霊団が当地を訪れ、最近起きたこの島での地すべり事故の犠牲者へ4万ペソを寄付した事を知ったのが会うきっかけとなった。当時師団長官舎をフレディさんの祖父の屋敷を接収、使用していた。その間、牧野中将とフレディ少年と交流があった。牧野中将は少年に金魚の餌のやり方を教えたりキャンディーや木製のおもちゃを渡したりしている。時には母親に食料と砂糖をお土産にしている。また、フレディ少年を隼戦闘機や100式重爆撃機「呑竜」に乗せている。入校当時我々に「花も実もある。血も涙もある武人たれ」と教えた牧野校長であった。お別れしたのは昭和19年3月2日。晴れていたが風の強い日であった。16師団長に補せられた校長の訓話があった。その『離任の辞』は印刷されて配布された。それから戦死されるまでのことは殆ど知らない。タクロバン進出はその年の4月13日。弘道君の話では飛行場作りに住民をかり出し、軍票とお米を与えたという。他の資料では各地部隊の陣地構築の指導督励し司令部も塹壕、防空壕堀りの毎日であったとある。陣中日誌を見ると、
昭和19年6月16日 発熱四十度を越す。終日臥床、デング熱にあらずと決定するも衛生兵を煩わす。
6月17日 比島官民飛行場建設作業集金途中、自動車事故により比人2人即死、2名重傷、誠に同情に堪えず、慰藉の途を請ぜしむ。
9月1日 57期沢少尉ゲリラ討伐戦に壮烈な戦死を遂ぐと聞く。(註沢俊海・歩兵33連隊、8月28日バルト付近で戦死・佐賀県出身)師団討伐において死傷を極力すくなからしむよう特に注意を与ふ。
なおフレディさんの思い出の記には「両親が日本兵との接触を避けた理由はずっと後になって教えられた。父方の親族のなかに地下活動をしているものが大勢いたからだ。両親は妹や私がゲリラになっている親戚達の事を不用意に日本兵に話すことを恐れていたのだ。彼等はよく活動資金カンパのために訪ねてきていたし、両親は彼等から太平洋の最前線での最新の戦況ニュースを聞いていたのだった」とある。ゲリラ活動は盛んであったようである。さらに「牧野将軍は1944年(昭和19年)のレイテ島ビリヤバ高地の戦闘で多くの部下と共に戦死した」と書く。これについて弘道さんは「戦死した日は確認出来ないが、様々な情報から1945年7月ごろまでビリヤバ高地でのガルバゴス付近に生存していたことは間違いなさそう。戦死公報は7月15日(行年52歳)」と記す。
牧野校長の「離任の辞」に曰く「諸子の現在は品性高潔、純真無垢、誠に神に近きものあり。然れども人の品性は年齢を重ねるに従い或は環境の汚濁に侵濁し或は身辺の利害に左右されて、かえってその気品を逐次低下することなしとせず。功を急ぎ利を遂ひ、物欲を制し得ずして一身を誤り名を失うものその例に乏しからず。諸子の心これに迷う日あらば清浄なりし振武台の生活を回想し、大声を発して懐かしき諸子の校歌を唱すべし・・・」当時我18歳なり。現在80歳なり。我は歌わんわが校歌を・・・
(柳 路夫) |