安全地帯(152)
−信濃 太郎−
危機管理能力ゼロ、責任感ゼロ時代
埼玉県ふじみ野市の市営プールで小学2年生の女子児童(7)が事故死問題は起こるべくして起きた事件であり、今の時代の底流に現代人の想像力の貧しさと仕事にたいする責任感が次第に失われてゆくのが見て取れる。市から管理業務を委託された管理会社がさらに下請けに業務を丸投げしてもかまわない。下請けがしっかり仕事を遂行すれば文句はない。このような経済構造は日本ではよくあることだ。問題は事故を伴いがちなプールの管理体制である。溺れる子も出るし、病気で倒れる子もいる。転倒して怪我をする子もいる。その場合の救急態勢は出来ているのか。次は監視体制である。みているだけでは駄目だ。予め事故が起こりそうな場所には重点的に人を配置したり、絶えず監視する体制をとる。アルバイトであっても注意し行動するように仕向ければよい。吸水口の蓋が落ちていたのに何の蓋かわからなかったというのではただ監視のアルバイトを配置したに過ぎない。木偶の坊と同じである。下請けの責任者は現場を視察せねばならない。あらゆる事故を想定すればおのずと対策は取れる。「吸水口の蓋をボルトで固定せず針金でとめていた」などとは開いた口がふさがらない。事故の場合を想像したらそのような安易なことは出来ないはずだ。
市営である以上市の責任は免ぬがれない。担当者は機会を見て現場に行かねばならない。市の担当者が行けば現場は緊張する。時には質問をするとなお良い。監視体制もプールの状態もアルバイトの質もわかる。事故をおきたことを想像すれば担当者自身が恐ろしくなるはずだ。杜撰管理状態であったとすればそれを見抜けなかった責任は小さくない。担当者も事なかれ主義に陥っており、なおざりに仕事をしているに過ぎないのではないか。一連の動きをみていると昔ほど仕事に対する責任感がなく、場当たりである。また危機管理能力がゼロであるとひしひしと感じる。このようなことは他の職場でもあるような気がしてならない。端なくも今回の女児童の死亡事故が世相の悪い一面を浮き彫りして見せたといえよう。 |