河上民雄さんから父、丈太郎没後40年記念・母、末子没後30年記念「進んで名を求めず」の小冊子(2005年12月2日発行)を頂いた。私は題が気に入った。河上さんの人生訓で、孫子の第十地形篇に出てくる言葉である。「進んで名を求めず、退いて罪を避けず、唯民を是保つ」という。社会党委員長として実にふさわしい。孫武は斉の人で、兵法を好み13篇か
らなる兵書を残している。孔子と同時代の人である。私が好きなのは第九地篇にある兵法「是を死地に陥れ然る後に生かし、是を亡地に置いてしかる後に存せしむ」である。漢初の有名な韓信が趙の大軍と戦った際、この兵法を用いて敵を殲滅している。韓信はここで背水の陣を編み出している。興味ある話が出ている。一高在学中、徳富蘆花に「謀反論」の題で講演をさせている。明治44年2月1日である。頼みに入ったのは河上さんと同じ弁論部の鈴木憲三さん。その年の1月22日である。幸徳秋水以下24名に対する死刑判決があって4日目である。蘆花はもらす。「不平を吐露するに、一高はよいところだからな」火鉢の灰に「謀反論」と書く。この題では講演中止となるので学校の講堂には「演題未定=徳富蘆花」と掲示した。当日の蘆花は和服に黒目がねであった。講堂は満員で窓にも人だかりが出来たと言う。講演が終わった後、新渡戸稲造校長、弁論部部長、畔柳先生が文部省から譴責を受けた。当時の言論機関は幸徳事件について何等批判をしなかった。それをあえて蘆花が批判したわけである。河上さんは蘆花を「時代の良心」であったと評価する。蘆花夫人愛子日記には一高の生徒が2時間の演説をおとなしく聞き、騒ぐものがなかった。自愛して世の所謂利巧者となるな。清かれ、深かれ、いつまでも・・・と書いている。
印象に残るのは昭和32年の河上さんを団長とする四名の訪米使節団である。その一文を「荒地にくわを入れてきた」と朝日新聞に発表した(昭和32年11月2日)。アイゼンハワー大統領時代で反共強硬論者のダレスが国務長官であった。ダレス会談は激論となった。河上さんは社会党の意見と、その政策の基本について正確に伝える事が出来たと信じ、社会党の政権ができれば、これと交渉する用意があるとダレスがいったと記している。河上さんは昭和40年12月3日なくなった。それから41年、アメリカの荒地にくわを入れたときから48年。現在の社民党を見るとき索漠とした気持ちになるのは私だけではあるまい。河上さんは「十字架委員長」といわれた。「自分の十字架を背負ってついてくるものでなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカによる福音書14章17節)という気持ちであったと思う。社民党よ河上さんの志に思いを致せ。
(柳 路夫) |