2006年(平成18年)2月1日号

No.313

銀座一丁目新聞

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安全地帯(134)

信濃 太郎

 楽しからずや友との語らい

 友人たちと安くて美味しい料理を食べようと2、3ケ月に一度会合を開いている。世話人はホテル業界で名が通っている鈴木博君とカメラマン役の安藤重善君。今年初めての会合場所は日比谷公園内の松本楼(1月27日)。日比谷公園の開園は明治36年6月1日。松本楼も三階建て出窓のあるフランス風レストランとして開業した。ここには日本の近代史が刻み込まれている。現社長の小坂哲瑯さんの頼みで「松本楼の歩み」―日比谷公園とともに70年―の小冊子発行をお手伝いした。今から33年も前の話である。この日、名物のカレ―も頂いたしコーヒーも飲んだ。参加者24人の話は何れも面白かった。証券会社の社長、会長を務めた広瀬秀雄君。「部下2名が証券取引法違反で捕まった事がある。そのとき私は何をしたかというと、10月ごろであったが毛布を差し入れた。退所の時は小菅の近くの営業所に理髪やを用意させて二人の頭を理髪させた。2人からも家族からもたいへん感謝された」さすが広瀬君である。目の付け所がよい。彼はまた「今日はパール生誕120年である」と教えてくれた。ラダ・ピノート・パール博士は1886年1月27日インド・ベンガル州の小村で長男として生まれている。19歳の時日露戦争で日本が勝ったことを知り「日本に対する憧憬と祖国に対する自信を同時に獲得わななくような思いに一杯になった」という(田中正明著「パール判事の日本無罪論」より)。私はこの日のブログにモーツアルト生誕250年を書き込んだばかりであった。自治省の役人で防衛庁施設庁長官などを暦任した塩田章君。「昭和43年5月末兵庫県の総務部長のとき直ぐ上京せよの命を受けた。次官から『実は今から君に戦争に 行ってもらいたいのだ』といわれた。聞けば小笠原が返還になり綜合事務所の所長として赴任してほしいということであった。戦争というのは動員令が下ったがまだ部隊は編成されていない、しかも上陸する日は6月24日ときまっている。部隊を編成して、所用資材を調達し、所用船舶に搭載して返還式に全てを間に合わせしなければいけないというのである。急遽出陣する 師団参謀よりも難しいかもしれないよと次官から言われた」と初代所長としての苦労話をする。所長を決意するときの心境を塩田君はその著「会者定離」で歌に託して語っている。『市ヶ谷台上詩人有り』といわれた名作で皆川庄五郎(陸士23期)作「北に飛ぶ」(「嗚呼玉楼の」・プレドウ旅団の譜)がぴたりであった。最後の7番が最もふさわしいかったという。「生まれし故郷はいまいずこ/馴れし都は雲幾重/北辰直下のこの島に/過ぎし偲び 今を泣き/長嘯月に対しては/我は悟れリ「命なり」と/多恨の我は北に飛ぶ」塩田君のその後の役人人生を見るとこのときの決断が見事であったといえる。友人たち一人一人の話をうなずきながら楽しく聞いた。

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