2005年(平成17年)11月20日号

No.306

銀座一丁目新聞

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花ある風景(220)

並木 徹

二宮尊徳に学ぶ「積少為大」

 同期生30名(夫人3名)とともに二宮尊徳(幼名金次郎)が生まれた小田原市栢山付近の自然に触れ、記念館を見学した(11月9日)。案内役は同期生で、自宅に尊徳の石像が二基もある尊徳研究家の井上成一君である。昔、小学校の校庭に薪を背負い本を読んでいる金次郎の石像があったが、読んでいる本が「大学」であるのをつい最近知った。宇野精一さんは「尊徳の思想と功業の基礎はこの大学にある」といっている。掘和久著「二宮金次郎」によると、父利右衛門からためになる本と教えられていたのは「大学」のほか「論語」「農業全書 抜粋写本」「実語教」「消息往来」など十数冊に及ぶとあるから薪を背負いながら読んでいた本が必ずしも「大学」だけではなさそうである。
 人間の成長にとって自然環境は無視できない。近くに酒匂川(さかわかわ)が流れる。足柄平野を北から南に貫通して相模湾に注ぐ。豊かな恵をほどこす川だが金次郎には厳しい試練を与えた。寛政3年(1791年)8月関東一帯を襲った大暴風雨で酒匂川の堤防が決壊、二宮家の2町3反6畝の田圃は石河原と化した。利右衛門は「栢山の善人」といわれた人で困窮者に金品を施したり証文や質草を取らずに金を貸したりした。この人を思いやる性格は金次郎に受け継がれた。そのため二宮家は困窮し、利右衛門は寛政12年に死ぬ。享年48歳であった。その間、尊徳は堤防決壊を防ぐ方策として松の根を張らせ合わせることを考えつく。すこしずつ金を貯え、200文で松の苗200本を買い、それを堤防に植えた。現在堤防にあるのは2代目の松である。困窮の中でこれだけの仕事をした。時に13歳。如意山善栄寺にある尊徳の墓にも井上君が用意した線香を供えお参りをする。
 亨和2年(1802年)4月、母よしがなくなる。享年38歳。よしは大柄で働き者であった。金次郎の身長183センチ、体重94キロという体躯は母親譲りである。この年の6月、酒匂川が氾濫して金次郎が苦心して開墾した土地は荒土に戻った。家屋も破損した。仕方なく二人の弟は母方の叔父に、金次郎は父方の伯父二宮万兵衛に引き取られる。この万兵衛を金次郎は毛嫌いしていたが、伯父から農業を徹底して教えられる。それが後年役に立つ。明かりをつけて勉強する金次郎は「灯油は高価なものだぞ」と伯父から読書を止められて考え出す。友人より一握り(0.1リットル)の油菜の種をかりてその種をまき、翌年15リットルの収穫を得て、灯油と交換する。さらに捨苗を拾い集めて荒地に植えて1俵の米を得る。ここから「積少為大〕の哲理を知る。17歳である。
 展示室に木箱の砂の上で文字を書く金次郎の人形がある。箸棒を筆として砂の上に書いては消して数学書を勉強した。今の子供たちは恵まれすぎである。記念館の庭に「回村の像」として等身大の金次郎の像がある。短刀を差した羽織袴の偉丈夫である。37歳の時(文政5年)藩命により栃木県二宮町(旧桜町)の4000石の復興のために赴任する。そのさい、努力して得た田畑家屋を一切処分してその資金を復興資金する。朝早く櫻町の村村を見て廻る。誰もができることではない。桜町領は本家大久保忠真の従兄弟の宇津汎之助の所領で4000石だが3000石程度の土地であった。村民達は年貢米を納めかねて村を出るものが少なくなかった。金次郎がきたころ、桜町には家数156軒713人の村民がいた。田畑の手入れは行き届かず、領内の過半が荒地化していた。人情も荒廃して誰もが桜町領勤番を嫌がった。もちろん金次郎も再三断った。桜町に4度足を運び、調査し検討した上、引き受けた。井上君は「二宮仕法」を説明する。「調査・計画」(資金の源泉)「勤労」(収益)「分度」(経費・利益)「推譲」(資金の分配)だという。金次郎が調べではここ10年間の平均実収が962俵と畑方の小物成りが130両であるので10年間はこれ以上の年貢を求めないと約束させて復興に取り掛かった。復興まで「勤労」「分度」紆余曲折があった。中でも成田山・新勝寺の三七断食修業は有名である。天保2年10年の仕法が終わる。余剰米420俵を収める。年貢は2千俵に倍増された。藩主から「以徳報徳」の賞詞をいただく。尊徳の「報徳」の精神はこのときから広まったといわれる。
天保4年の夏、宇都宮で昼食のおかずに出された茄子の味が旬に関わらず秋茄子の味がした。「この秋から来年にかけて必ず飢饉が来る」として凶年でも実る粟、稗の種をまくなど対策を立てた。予想通り奥羽、関東一円は凶作に見舞われた。櫻町は餓死者は一人も出さなかった。救援食糧を近村の村村へ送り多くの人命を救った。
その後幕臣に登用されて戸根川治水工事や関東の天領復興を命じられ、業績を上げる。安政3年、永眠、享年70歳であった。

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