2005年(平成17年)11月20日号

No.306

銀座一丁目新聞

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北海道物語
(23)

「北海道の野口雨情」

−宮崎 徹−

  私が子供の頃、よく母親が唄って聞かせて呉れた童謡には、野口雨情さんのものが多かった。高齢になると時々その昔の母の歌声が蘇って来て、私は母と共に雨情を懐かしく思っていた。その雨情が明治四十年に新聞記者として北海道に足掛け三年居り、四十 二年の十一月に旭川の北海旭新聞社勤務を最後に離道したと知って、其の頃の消息を調べてみたかった。しかし、漸く軍隊を中心とした町として発展しはじめた旭川は、雨情の価値を知らなかったし、彼の詩情を育む風土ではなかったのだろう。旭川には全然記録がなく、小樽・札幌での雨情、特に新聞記者として石川啄木と親しく交わっていた彼のことは、北海道では特に多い啄木研究家の筆によって知り得るのみである。
 雨情の生家は茨城県磯原、現在の北茨城市である。水戸藩の郷士で光圀公がしばしば泊まられたという屋敷を持つ大地主の野口家の長男だった雨情は、東京の中学を経て早稲田大学の前身の東京専門学校に入って居た。ただ明治三十七年村長だった父が急死して帰省して家を継ぎ、やや傾きかけていた家の実情もあり、栃木県の実業家の娘と結婚する。
 磯原から再び東京に出、新聞社通信員として北海道へ渡り、そのまま札幌の「北鳴新報社」に記者として入社、当時函館に居た石川啄木も札幌の新聞社に入り、二人の交際が始まった。夫人と子供を伴って磯原から札幌へ移って来た雨情は安月給で苦労したようである。
 啄木との交流、お互いに漂泊性のある二人が新聞社を転々とした活動は文学史に任せるべきだが、彼等が共に勤めた小樽新聞時代、身重だったひろ夫人が長女を出産した。小樽から札幌に急ぎ帰った雨情だったが、生後八日目で赤ちゃんがなくなってしまった。大正十一年、童謡作家としての最盛期、中山晋平の作曲で広く唄われた「しゃぼん玉」は、この時の雨情の哀情の追慕の作であると云われる。しゃぼん玉は屋根まで飛んで、こわれて消えた。生まれて直ぐにこわれて消えたのである。風の無情をなげく雨情は弱い者、気の毒な者に情を注ぐ詩人だった。娘を象徴するしゃぼん玉の歌を子供の私は意味も知らずに歌って、しきりに母親にしゃぼん玉造りをせがんで居たものだった。
 札幌時代が産んだもう一つの歌に「赤い靴」がある。雨情が北鳴新報に入社した時、隣家に同じ新聞社に勤める鈴木さんという人と親しかった。お互い身の上話をし合う中に、鈴木氏は静岡県清水市出身の妻女と函館で知り合って結婚し、羊蹄山麓で農場を開こうと入植した。この時彼女には前夫との間にきみちゃんという三歳の子供が居て、苛酷な未開の開拓地に幼児を伴えず、アメリカ人宣教師夫妻にきみを預けて入植したが、二年余りで挫折し、札幌に出て来たのである。預けるというより外人の養子に出したのである。今は、消息も判らぬ米国に渡った子供を思い出して涙しているという話を聞いて、胸を打たれた雨情は、大正十二年「赤い靴」を畏友の本居長世の作曲で発表して、子供達の愛唱歌となった。作詩した雨情は隣家の不遇な鈴木夫人が、我が子の外国での幸せを祈る一面、海を越えて一生会われぬ淋しさに涙している姿を思い浮かべたのだろう。メロディーも哀調がただよっている。
 私達は鈴木家の深い事情を知らず、一つのエキゾシチズムを含んだ童謡ものがたりとして覚えて居た歌だったが、「あのきみちゃんは私の十歳上の姉だった」という女性の投稿が昭和四十八年に北海道新聞に載った。そして北海道テレビの菊池記者がきみちゃんの生涯を探ることとなった。子供を渡したアメリカ人の宣教師がチャールズ・ヒューエット夫妻と知ると、米国へ渡って調べ、夫妻はロサンゼルス郊外で亡くなっていることがわかった。そして尋ねてみるとそこにはきみが暮らした気配はなかった。菊池記者は各地の外人墓地を調べて行くうちに、港区役所で青山墓地に外人とゆかりを持つ人の墓があるのを聞く。そして墓地の管理事務所の厚い埋葬名簿に「 佐野きみ 明治四十四年九月死亡結核性腹膜炎」の記帳を見つけた。佐野とは鈴木夫人の前夫の名である。刑務所暮らしの長い人だったと云う。ヒューエット夫妻に預けられたものの、きみは重い結核で長途の旅は困難だった。六歳の時東京六本木教会の孤児院に預けられ、そこで薄倖の九歳の生涯を終えていたのである。
 五年にわたる調査の末突きとめたきみちゃんの生涯は菊池プロデューサーによって全国ネットで放映され、菊池氏の出版した「赤い靴はいた女の子」は」全国に赤い靴ブームを起こし、母と子の故郷の清水市日本平には母子像が建っているという。
 鳥居坂教会附属の孤児院は今はなく、麻布十番稲荷神社境内がその跡である。十番商店街の人達も、この町で眠るきみちゃんの為に像をつくろうと商店街の中にミニ公園を設け、その中にお下げ髪のマントを着た きみちゃんの像がある。九歳で死んだ子供というよりも乙女に近い。母親が夢想した外国で育つきみちゃんの姿のように。この像の提唱者山本さんの気持ちは今も生きていて、大江戸線の開通で、俄かに交通の便に恵まれ、良き東京の面影を伝える麻布十番街にきみちゃんは永い命を保っている。
 雨情の長い間の研究者の中では、此のモデルの出現に惑いを持つ人達も居る。詩人の自由な詩的感情は現実の枠から離れ、赤い靴の中の子供は私の子ではないか、もしかしたら私の姉だろう等と想像した人も多く居たことだろう。横浜の港。外国船。明治大正の頃から数多くの別離の哀哭を見て来た港に臨む山下公園にも、赤い靴を愛する市民の会の建てた像がある。母と子との尽きない、けれども儚い縁、雨情の心を多くの日本人が持っているからであろう。

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