2005年(平成17年)10月10日号

No.302

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追悼録(217)

「皇国の春によみがへらなむ」

  沖縄戦で自決した第32軍牛島満中将(のちに大将・陸士20期)は次のような辞世の歌を残された。

 <秋待たで枯れ行く島の青草は皇国の春によみがへらなむ>

 桶谷秀昭さんの著書「昭和精神史」(戦後編)に折口信夫がこの歌をラジオで聞いて激賞された話を記している。折口は昭和のはじめ古代研究のため沖縄に訪れている。ここで折口は「岬の残巌に叩くともなく、また離れてでもなくひと群れの青草・・・」の風景を目にしている。
 九州に勤務したことのある私は沖縄を4、5回行っている。そのつど摩文仁の丘で牛島大将と長勇参謀長(陸士28期)等沖縄戦で戦死された将兵の霊に手を合わせた。
 桶谷さんは綴る。「折口信夫が、青草の幻想のみづみづしさを抱いたのは。辞世の下句『皇国の春によみがヘらなむ』の微妙な感情を正しくつたへている語法の感銘に由来した」
 「よみがヘらなむ」を説明する。「よみがへってくれ」「よみがへってくれるやうに・・・」と言う意味で、我が身の志を継承して行くもののあることを祈っていることになるのである。その祈りもあからさまにいう祈りではなく、ひそかに、ひとりごとのやうにいう祈りである。心細いだけに、その切実な感情はひときはは深いものがあるという。
 アメリカのある雑誌が第二次大戦の名将のベストテンの中で日本の名将二人を上げた。それは牛島大将と硫黄島で戦死された栗林忠道大将(陸士26期)である。牛島大将は西郷隆盛、大山巌、東郷平八郎などが生まれた鹿児島の加治屋町育ちである。西郷さんと綽名された人物であった。陸士は恩賜の成績であったが陸大では授業中居眠りばかりしていて教官に指名されると「はい、退却します」迷返答していたと伝えられている。経歴も教育畑が多い。戸山学校教育部長、予科士官学校幹事、予科士官学校校長兼戸山学校校長。希望して母校の鹿児島1中の配属将校を3年務めている。ちなみに配属将校で大将になったのは藤江恵輔大将(陸士18期)とふたりだけである(昭和4年砲兵大佐の時、京都帝大に2年間配属将校を務めている)。私が陸士の本科に進んだ時には牛島中将は陸士校長から沖縄・32軍司令官として転出された直後であった。その謦咳に接しえなかったのは残念である。
 折口信夫は牛島大将の「緻密な表現」に感動されているが何も驚くことはない。昔からもののふは詩歌を勉強した。新渡戸稲造の「武士道」には大鷲文吾の「武夫の鶯きいて立ちにけり」の名吟が紹介されている。栗林忠道中将もまた玉砕寸前に大本営に送った決別電報の最後に「左記駄作ご笑覧に供す」と3首の歌を示した。「国のためつとめを果たし得で矢弾つき果て散るぞ悲しき」
 牛島大将の自決は昭和20年6月23日、享年56歳。栗林大将の戦死は昭和20年3月26日、享年54歳であった。

(柳 路夫)

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