安全地帯(123)
−信濃 太郎−
戦後60年、同期生は生きる
陸士59期生の60年記念全国大会が開かれた(9月27日・東京京王プラザホテル)。参加者は予科、本科の各区隊長11名、同期生541名であった。2年ごとに全国大会を開いているが前回に比べて100余名.4年前に比べて200余名参加者が減っている.ほとんどのものが80歳に達したのだからやむを得まい。
会場で同じ予科23中隊の2区隊の鳥居崇君から同区隊の「会報」―戦後60年の回想ー ハードカバー、135ページの本を頂いた。22人の同期生が思い思いに幼年学校、予科、本科時代のことや戦後の生きた道を語っている。「今を懸命に生きた」同期生の姿に感動した。私の心に響いたものを選ぶ。
小野基一君(熊幼.野戦重砲.小野建元社長)ー小野君の父は根っからの商人で常々『会社の商売が大きくなってもけしておごらず、周りの人にいつも感謝しなければならない.この気持ちを忘れたら商人はおわりだ』と諭していたという。専務時代に小野君なりに信用の蓄積、資本の蓄積、奉仕の蓄積、人材の蓄積、取引先の蓄積の「五の蓄積」をまとめおおいに業績を上げた。
河野通太君(歩兵・中学校元校長)−河野君は終戦の時「これからの歳月、ぶざまな生き方だけはすまいぞ」と心に誓い、教職の道に進んだ。就職して間もないこ、校長と教頭の口論を聞いて「子どものようなけんかをするな」といったり、若い女教師に物を渡してくれるように頼んだらぽんと投げたので「無礼者」と怒鳴って泣かしてしまったりした。またやる気のない先輩先生を説教したこともある。どうも型破りの教師であったようである。今でも当時の同僚に会うと「校長や教頭は少しも怖くなかったが、あなたが一番怖かった」といわれるという。私は1区隊なので、戦後河野君とは一度も会っていないが、会いたいと思う男である。
田村庄次君(航爆撃・丸紅ベルギー会社社長)−丸紅時代オーストラリア勤務が長く、「羊毛博士」と言われた。戦後開かれた23中隊会で彼の羊毛の話を聞いた。反日感情の激しかった豪州も1961年日本への羊毛輸出が英国を抜いてトップとなり、豪州経済に大きく貢献してから友好への転機となった。2000年代には日本が最大の貿易国、最大出超国となり政治面でも協調するところが多く、日豪関係は50年全には予測できなかったすばらしい友好の絆でむすばれ、嬉しい限りだと田村君は書く。
鳥居崇君(高射兵・半田学園常務理事)は予科時代の思い出を綴る。昭和19年5月(22日から30日)富士の裾野の板妻で予科最後の野営演習があった。ここの風呂が入ると胸までたっぷりとお湯があったと言う。私にはそんな記憶はない。腰掛用の段までついていて腰掛けると口までお湯がきてしまう。これはこの風呂が日露戦争の捕虜用であったためだそうだ。高射兵のかれは大阪の高射第3師団で隊付け教育を受けた(昭和20年2月19日から3月17日)。3月13日の大阪大空襲の際には「高射砲の発射音と轟々と言う爆音にびっくり仰天、飛び起きてみると戦闘の真っ最中。候補生など相手にしておられないといった様子。それでもと、爆薬庫から砲弾の運び出しを手伝うこと凡そ3時間余。一面を覆う煙の中で東の空が白んできた」と実戦を経験している。
名簿によると39名在籍した2区隊は現在員27名、死亡者10名、消息不明2名となっている。 |