1998年(平成10年)5月10日(旬刊)

No.39

銀座一丁目新聞

 

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ヒマラヤの虹(10)

峰森友人 作

 「今日一気にビレタンティへ下りてしまいましょう。ここから計算すると、二千メートルほど下ることになりますが、今までのペースだと十分行けるでしょう」

 ロッジで朝食が終わると、ナラヤンが言った。

 ビレタンティはフェディと並ぶもう一つのアンナプルナ・トレッキングの出発点である。フェディから入ってビレタンティへ抜けるか、あるいはその逆を行くかがもっともポピュラーなトレッキング・ルートである。途中雷雨に遭ったが、夕方無事ビレタンティに着いた。

 翌朝のビレタンティは帰ってきた人、出発する人で賑わった。慶太と百合が川を見下ろすロッジの休憩所で朝食後の紅茶を飲んでいると、ポカラから着いたばかりの若い北欧の女性が身支度を整え、ポーターが荷物を背負い終わると歩きかけた。百合が近寄って声をかけた。

 「どうぞこの杖、使ってください。上りにもいいけど、下る時とっても役立ちますから」

 「オー、サンキュー。あなたはもういらないのですか」

 「そう、私はもうポカラに帰るだけだから。午後はサンダーストームになりやすいから、気をつけてね。ポーターたちは雷が平気みたいだから」

 「オー、サンキュー。ご忠告覚えておきます」

 彼女は百合に軽く手を上げると、にこにこしながら出発していった。

 

 フィッシュテール・ロッジは唯一フェワ湖の対岸にある建物である。ホテルの食堂の大きな窓を通して暮れていくマチャプチャレが美しかった。レイクサイド通りのざわめきは全く聞こえてこない。

 その夜は一週間ぶりに電気も、食器も、訓練されたウエーターもそして豊富なメニューもすべて揃った食事となった。マデュカールは慶太たちがトレッキングにこの上もなく満足して帰って来たのを見て、いかにも嬉しそうだった。自分が熱心に勧めたことが喜ばれて、丸い顔をより膨らませて得意げだった。約二時間後、マデュカールは明日は朝八時半に迎えるに来ると言って帰っていった。慶太のカトマンズ行きは午前九時半発である。百合はフェワ湖のこのホテルがとっても気に入ったので、明日は一日休養して、明後日の便で帰りたいと言った。

 独立した食堂の建物の前でマデュカールと別れた慶太と百合はどちらから誘うともなく、湖畔沿いの小道に入っていった。ツボルグで温められた肌に夜風が涼しい。レイクサイド通りの土産物屋やホテルの灯が湖の中で踊っている。闇に包まれたこちら側とは対照的だ。慶太たちの小さな話し声でも目が覚めたのか、時々山鳥が羽をばたつかせて、隣の木に移った。山の中では食事が終わるとすぐ寝る生活パターンのためにゆっくり星空を眺めることがなかった。それに季節がら夜間は谷間に霧がかかって、必ずしも星空には恵まれなかった。ところがこの夜のポカラは違った。ところどころ白く霞んではいるものの、無数の星が空を埋めている。

 小道が少し広くなったところに立ち止まってじっと空を見上げていた百合が、南の空を指して、

 「あれが、ヒドラ、ウミヘビ座ね」

 と言った。

 慶太が百合の指示す方向をさ迷うように見回すと、

 「ほら、いくつか星が集まっているところがあって、その下の方にかなり大きな星が見えるでしょう。あれがアルファ星でしょ。ぽつんとひとつあるせいか、一人ぼっちを象徴するんですって。そしてずっとその下の方にも少しくねったように星がつながっているのが見えるでしょう?」

 百合の説明のままに、慶太は空のウミヘビを見つけようとするが、もともとウミヘビがどのような形なのか予備知識のない慶太には、星をつないでヘビを想像することは出来なかった。

 「残念ながら僕に見分けられるのは、北斗七星とオリオン座のほか、夏のサソリ座ぐらいなんだ」

 「あら、サソリ座が?どうして?北斗七星とかオリオン座というのは分かるけど」

 百合は闇の中で慶太の顔を見詰め、目を輝かせた。

 「昔、とある女性と、とある国で、七月の末にやはりこうして空を見上げたことがあってね。その時その人が教えてくれた。以来夏が来ると、サソリ座と夏の大三角形だけは見つけられる。だから七月になるとサソリ座を探して、その人のことを思い出す。心の中での年に一度のランデブー」

 「まあ、七夕様ね。でもそれじゃその女性は奥様ではない・・・」

 「論理的推論としては、そうなりますか」

 「論理的も何も、そういうことでしょう?」

 百合は少し首をかしげて、戯れるように慶太を詰問した。闇が百合に加勢しているようだった

 「ではお聞きしますけど、これからは毎年四月になるとウミヘビ座を見つけて、とある国で、とある女性とそれを見上げたのを思い出すようになりますか」

 「はい、多分。ただ、それが・・・、まだウミヘビがどこにいるのか、よく分からないので・・・」

 と言って、改めて南の空を見上げた。すると百合が突然慶太の右手を両手でつかむと、南の空へ向けさせた。

 「ほら、あそこに少し星がかたまって見えるでしょう・・・?その星からずっと下に行くと、赤い大きな星が、ほら、あそこに、見えるでしょう・・・?さらにその下の方に・・・」

 慶太にはもう百合の言葉は耳に入っていなかった。自分の腕をとった百合の髪と横顔は自分の顔のすぐ下にある。山の汚れをすっかり落とした百合の髪や肌から立ち上る香りが慶太の胸に吸い込まれた。初めて会った日の夜と同じ藍染めのワンピースに同色の布のサンダルを履いたこの夜の百合は女の潤いに満ちていた。百合の香りをかぎながら、慶太は刻々と息苦しくなっていくのを感じた。

 その変化に気付いたのか、百合は慶太の腕を抱いたまま慶太の方を向いた。闇の中に百合の白い顔が浮かんだ。慶太の右腕は既に百合の腕に絡んでいる。慶太はゆっくりと左腕を百合の背中に回した。百合は抗うことなく、静かに立っていた。輝く目は、何が起きようとするのかを慶太の目の中に探るようにじっと見詰めたままである。慶太は百合を抱き寄せると、百合の頬に自分の頬を合わせた。すべすべした柔らかくて心地よい肌だった。慶太は初めて自分の感情に自由を与えて、百合を力強く抱擁した。百合の胸をかばうものはワンピースだけだった。百合の柔らかいふくらみをほとんどそのまま自分の胸に感じた。同時にその百合の胸に慶太の速まる鼓動が伝わっていった。慶太の熱い息が百合の耳にかかる。百合の半ば開いた口からも熱い息と短い声がもれた。二人はしばらくそうして立っていたが、やがて闇に慣れた慶太の目は近くにかなり大きな石のあるのを見つけ、慶太は静かに百合をそこに導いた。そして二人はロダンの彫刻のようなフォーメーションでほとばしる感情に理性の座を譲った。

 どれぐらいの時間がたっただろうか。山鳥がねぐらを変えるために、枝を騒がせた。その音で、慶太は静かに抱擁を解いた。理性が再びその座を得てからも、長い沈黙があった。やがて低く思い声で慶太が言った。

 「・・・、失礼なことを・・・してしまった・・・」

 また沈黙と静寂が戻った。しばらくして百合が消え入るような声を出した。

 「私も・・・」

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