1998年(平成10年)5月10日(旬刊)

No.39

銀座一丁目新聞

 

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小さな個人美術館の旅(35)

富本憲吉記念館

星 瑠璃子(エッセイスト)

 京都から列車を乗り継いで、法隆寺駅に着いた。かつて私がこの美しい塔のある寺を足しげく訪れた頃と違って、駅前の道はすっかり舗装され、ひっきりなしに観光バスが通る。けれども土塀をめぐらし大きな長屋門をもつ記念館の前まで来れば、そこには昔と変わらぬ、足裏にやわらかい大和の道があった。車をおりると若草の匂いがした。

 生家が改造され、記念館として生まれ変わったのは憲吉没後十年余を経た1974年のことだ。広い敷地内には、愛用した離れ屋はそのままに、一部を改造して位置を少しずらしたという母屋、陳列室となって残る土蔵、大阪から移築して陳列館とした民家などが、自然の風情を残す庭を挟んでゆったりと建っている。「最初の楽焼窯跡」と小さな標の立つ辺りに佇むと、私は切ないような喜びの心でいっぱいになった。陶器のことなどちっとも知らない。特別の関心があった訳でもない。けれども富本憲吉だけは別だった。一枚の皿を見るだけで心が震えた。その富本憲吉記念館に、私ははじめてやって来たのだ。

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富本憲吉記念館

 「こんにちは」「こんにちは」と来館者が母屋の土間に入ってくる。若いカップルや、熟年の夫婦づれや、イギリス人らしい紳士を伴った女性が、こんな辺鄙な里の記念館に遥々やってくる。そこは大きなストーブを囲んで五、六脚の木の丸椅子が置かれた飾り気のないスペースで、座敷への上がり框には雑誌や資料などがあまり整然としたふうではなく置かれている。人々はそこで入館料を払ったり、時には椅子にかけて、ひっそりとおしゃべりをしたりもするらしい。「おひさしぶりです」とか、「どちらからおいでになりましたか」と、一人一人に親しげに声をかけるのは辻本勇館長の義弟、館長代理の山本茂雄さんだ。来る人も迎える人も、みんなが親戚の人みたいな雰囲気で、こんな記念館には初めて来たような気がする。

 1886年、富本憲吉はここ生駒郡安堵に古くから続く旧家の長男として生まれた。漢学を修め、書をよくし、南画も描いたという趣味人の父は、座敷で少量の晩酌をやりながら、幼い息子に明(みん)と有田の焼きもののゴスの色合い、味の深さについて語って聞かせたりするような人だったが、憲吉が十歳の時に亡くなった。

 数学が得意だった憲吉は、奈良の中学を卒業すると周囲の反対を押し切って上京、上野の美術学校(現東京芸大)の図案科に入った。専攻は建築および室内装飾で、卒業制作の設計図を早々と提出すると、卒業式を待たずにイギリスに渡る。留学といえばフランスヘ行くのが一般だった当時、憲吉がなぜイギリスを選んだのかといえば、ウイリアム・モリスの作品を見たいというのが、その目的のひとつだった。モリスとは、イギリスの詩人で工芸家。機械文明のなかで手工芸による美の再発見を企て、美術工芸上の主張実現のために社会革新運動に加わった思想家でもあったが、憲吉はその思想に興味をいだき、実際の仕事を見てみたいと思ったのである。

 ロンドンのアルバート・アンド・ビクトリア美術館に毎日のように通い、モリスをはじめ、ペルシャ陶器、インカの土器、英国の木工、染織、金工などが目を奪うように美しく並んでいるのを夢中でスケッチした。書きためて何百枚にもなったというそのスケッチは、生まれ育った大和の風物とともに、彼の血となり肉となった。「もしこの博物館を知らなかったら、私はおそらく工芸家となることはなかっただろう」と後に書くほど影響を受けたのである。

 焼きものの世界に入ったのは、ほんの偶然だった。イギリスから帰ってほどなく知り合ったバーナード・リーチと、ふとしたきっかけで始めたのが、いつのまにか深みにはまった。安堵村のはずれに本窯を築いて仕事場を造ったのは1915年、憲吉二十九歳の時である。しかし陶芸の世界は、まことに厳しい世界だった。後に憲吉自身が著した『楽焼工程』といった懇切な本などあろうはずもなく、一から十まで、文字通り手探りで進んでゆく。経済的にも恵まれず、例えば次の一節を、あの美しい作品を思い起こせば、私は涙なくしては読めないのである。

 「小さい飾りも何もない家には二人の子供が汚れた洋服を着、寒そうな顔をした妻は疲れた体を足の動く藤椅子によりかけて考えに耽ってゐる。私は十年前礼服としてこさへた洋袴(ズボン)を今もはいて泥にまみれて働いてゐる。夜になると子供達は使い古して毛のない毛布を着て暗い電灯の下で赤い顔を並べて寝てゐた。何といふことだ。全収入の半分を製作費につかひはたし、自分が現に使ってゐる轆轤(ろくろ)師よりも低い報酬でこの生活を続けなければならぬとは」(『窯辺雑記』)

 ついでながら、憲吉の妻一枝は平塚らいてふ達と女流文芸誌「青踏」の編集に携わっていた女流画家。憲吉とは熟烈な恋愛の末結ばれたという。

 26年、東京に移住。それまでの陶芸界では誰も創り得なかった清新にして典雅な作品を次々と発表、独自の世界を切り拓いていった。しかし、仕事も生活もようやく安定するかに見えた太平洋戦争の敗戦を機に、彼は全てのものを捨ててしまう。不本意ながら引き受けていた日展の審査長を辞し、芸術院会員を辞し、芸大教授の職を辞し、いわゆる民芸派が復帰したいと言ってくると、その創設に力を尽した国画会の工芸部とも訣別し、たった一人でこの大和へ帰って来たのは六十歳の時である。だがまたしても「生活の不如意は予想以上だった。少なからぬ田地は農地改革法によって取り上げられてしまい、しばらくは静養しようにも遊んでいては一日も食べていかれない」(『私の履歴書』)

 思うに富本憲吉の生涯は、裕福だった少年時代、青年時代と晩年のほんの幾年かを除けば、経済的な苦しみの中での苦闘の生涯であった。だがそんな中にあっても、彼は自分の作品を何とか安くつくり、少しでも安く売ろうと苦心した。若くしてモリスの思想に共鳴した彼は、自らお手本をつくり、それによって廉価な量産品をなすべく幾度となく試みたが、因習的な陶芸の世界では、それはなかなか成功しなかった。名工の一品製作は珍重しても、その同じ人が大量生産のための原形をつくるとなると、そういう作品は「うつし」と呼んで一段と低く見る、陶芸界とは、そういうところだった。

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富本憲善記念館

 いまここに飾られている作品の数々を見ながら、私はその端正な外見にもかかわらず、激しく純な気性に貫かれた富本憲吉という人の一生を思わずにはいられない。「平常心」という言葉を好み、決して声高に語ることをしなかったが、筋の通らぬことには一歩もひかなかった。そして、どこまでもさわやかで新鮮さを失わぬ高雅な作品を残し、文化勲章を受章した翌々年、七十七歳で没した。「墓は不要。我が作品が我が墓なり」と遺言したという。

 さまざまな思いに耽りながら外へ出ると、晩春の柔らかな夕日が土蔵の白壁を美しく染め、いささ群竹(むらたけ)がさやさやと幽かに風音をたてていた。この記念館は、文字通りこの不生出の陶工富本憲吉の墓だ。いつの世にも、訪れる人があとをたたない。

住 所: 奈良県生駒郡安堵町東安堵 TEL 07435-7-3300
交 通: JR法隆寺駅、又は近鉄平端駅下車 駅前よりバスで東安堵下車3分
休館日: 火曜日曜

星瑠璃子(ほし・るりこ)

東京生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業後,河出書房を経て,学習研究社入社。文芸誌「フェミナ」編集長など文学、美術分野で活躍。93年独立してワークショップR&Rを主宰し執筆活動を始める。著書に『桜楓の百人』など。

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