2005年(平成17年)8月10日号

No.296

銀座一丁目新聞

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自省抄(37)

池上三重子

   7月19日(旧暦6月14日)火曜日 快晴

 法政大学教授・王敏さん筆、新聞の「時流持論」欄で黄瀛(えい)さんのことを初めて知る。父上中国人。母上日本人、十八歳で女子師範卒という。お名前は喜智。すばらしい英才だった点を除き師範卒は私と同齢という話に惹かれ、また宮沢賢治、萩原朔太郎、高村光太郎、草野心平と面識ありなど、読みすごし不可能、その著書『宮沢賢治』(?)を読みたくなった。
 黄さんは現在九十八歳。中国重慶在という。全然知ることなくきた自分に罪障感すらおぼえる親日家に、私は日本人としてありがとうを言いたい衝動にかられている。
 重慶とは戦時中に蒋介石の名によって彫りついた地名。そこに私が書物のなかでしか知らない日本の先記の人々と接見の体験を持つとは。王敏さんに、黄さんにどうしてもハガキしたい、感謝したいのだ。
 既知の人々からいっぱい読者便りが届くであろうと予測すれば、私如きがと怯む気持ちもつよいけれど……。九十八は確かに高齢、しかし母の生を想えば何歳もお若い。その母に絶対安静を命じ、母に絶望的な「どうすっじゃかぁ!」の悲鳴を上げさせた医師と、黙認した自分自身への呵責を担う私だ。
 黄さんに生きていて欲しい。
 母の齢を超えるまで存えてほしい。
 母は不学の徒。それを生涯の唯一の悔とした人。聡明人間として野上弥生子さん晩年の写真の笑顔を重ねて私は母を追慕しやまず、今を、今日を生きている。
 光太郎も朔太郎も賢治も杳いとおい人、と想っていたが俄に身近かよ。

 只今五時すぎ。王敏さんの一文に感動、黄さんにハガキしたい気持ち押さえがたく朝日新聞柳川支局に電話、法政大学の住所を訊ねたが駄目。大学の所在地さえ知らせてはならぬとは。私のように五体不自由の全被護の身にとって実にせち辛い世になったものよ。個人情報などの法規にもとづく遵法か。
『銀河鉄道の夜』をひらく。
 黄さんは賢治を見舞っているのだ。
 重慶在という黄さんに、何を書きたい私なのか。九十八歳はなるほどの高齢ながら母は百五歳、正確には百四歳十一か月を生きました。絶対安静を医師が命じなかったら、まだまだポータブルトイレの使用はできたはず、粗相一回もしたことはなかったと記し、「がんばってて下さい!」と祈る心を伝えたいのだ。
 中国人の父上と日本人の母上のもと、二つの祖国をもって生まれた黄さん。
 母上は黄さんを軍人にしたかった。戦争となり日本は黄さんに軍門をひらかなかった。黄さんは重慶に帰り、蒋介石軍に入った。
 私は哀しい。すばらしい詩人を父上の国へ戻らざるをえなくしたのが。こんなに感動する日本人私が現にいるというのに、長く生きてと切に祈るというのに、日本の法規はそのことを書き知らしめて下さった王さん勤務の大学の所在地さえ知らせることを禁じるというのか。
 不自由な世相日本よ。
 しかしそうせざるを得ない国情か、世界の国際社会の現状なのか。一生懸命、生きたくもない死憧憬の床歴半世紀を、なだめすかしつつ生を支えているというのに……ぶつくさぶつくさの私の心象よ。
 黄さんにぜひ私の祈りを伝えたい。
 一晩寝んだら変わっていようか。
 おそらく断念は難しかろう。
 母上よ!
 お母さんは「業(ごう)なもんねえ。見知らぬ外国人に気持ちを伝えたい? 止めたがいい」とおっしゃるだろうか。いや、思い立ったらやれるだけやってみねば収まるまい、やったらいい! 老少不定ち昔から言われとる。やらんない(やってごらん)、思うごつやってみんない! と応えられるに相違ない。
 明日、木下鈴子ちゃんに法政大学・王敏教授の住所を調べてもらう事にしよう。
 善は急げだ。急がれないのは窮屈だ。
 ああ、もう配膳の時間。
 祈り実現に気鋭をやしないましょう私よ。



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