2005年(平成17年)8月10日号

No.296

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花ある風景(210)

並木 徹

「いくさー、せーならん」(戦争を絶対にしてはいけない)
 

 知り合いの画家、井手尾摂子さんから絵本「いくさー、せーならん」―三本のペニシリン―(可否の会出版。定価1200円)が送られてきた。作は北川登園さん、挿絵は井手尾さん。動物を描かしたら絶品の絵を仕上げる井手尾さんには珍しい子供向けの優しい絵(表紙・裏を入れて15枚)である。添えられた手紙には「戦争のことも沖縄のことも知らない私が描くべきではないと一度は断りましたが、考えた末、挑戦することにしました」とあった。
 主人公は沖縄県中部の読谷村に生まれ育った山内嘉政さん、88歳の実話に基づく読み物である。太平洋戦争中、陸軍の看護兵として従軍、敗戦、復員、家族との再会、戦後を生きぬいた嘉政さんの結論は「イクサー、セーナラン」であった。戦争は絶対してはいけないということである。嘉政さんは昭和13年2月、22歳の時、身重の妻ヨネさんと一歳の長女を沖縄に残して久留米輜重第8連隊(第18師団)に入営。7ヶ月後に陸軍衛生兵を命じられ、久留米陸軍病院で僅か4日間の訓練を受けただけで南支那の広東省に派遣される。当時の日中戦争の経緯に触れると、前年の7月7日、芦溝橋で事変が起こり次第に拡大して上海事変となり、南京攻略戦となる。昭和13年9月、華南の重要な資源を奪い中国側の対外連絡補給路を遮断するため第21軍が編成された。これに5師団、104師団とともに18師団も加わっているから嘉政さんも野戦病院の衛生兵として参加したものと思われる。21軍は昭和13年10月12日バイアス湾に上陸、10月21日には広東を攻略している。日本軍の損害は戦死者173名、負傷者493名であった。「前線から送られてくる傷病兵の看護で息つく暇もなかった」という。昭和16年12月8日太平洋戦争がはじまる。嘉政さんはマレー半島、シンガポール、スマトラへと転戦。スマトラは石油確保のため落下傘部隊が舞い降りたところである(昭和17年2月14日)。
 嘉政さんはどんな戦場からも一週間に一度ヨネさんへ手紙を出した。たまには冗談で『虎をつぶして食べた』などと書いたりした。ヨネさんが夫に送ったハーモニカと黒砂糖が二年半掛かって着いたこともある。
 スマトラでは江藤軍医のもと嘉政さんは日本兵だけでなく住民にも病気や治療の手当てをした。特に子供たちから慕われた。そのうちの一人に娘のためにシンガポールで買った生ゴムのサンダルをプレゼントした。雨のなかそのサンダルを胸に抱えた女の子が手を振って嘉政さんに別れを告げる絵がある。子供が五人描かれている。
 沖縄戦は昭和20年6月23日に終わった。守備隊は全滅した。女や子供を巻き込んだ丸で地獄絵を見るような戦いであった。ヨネさんは二人の子供と嘉政さんの弟の4人で沖縄の北部、山原の伊地に疎開していて無事であった。敗戦で嘉政さんはイギリス軍の捕虜となる。村人の態度は変わらず、治療を頼み、イモを差し入れてくれた。復員に際して江藤軍医は嘉政さんにペニシリン3本を「国に帰れば役立つ」と渡す。翌年の6月、シンガポールからの復員船は名古屋に入港した。日本本土の空襲の惨状に嘉政さんは大分県日田郡の山村にある江藤さんの診療所でしばらく働くことにする。そこへ長崎の原爆で両親を亡くしこの村のおじさんに引き取られている少年が肺炎になった。手当てを尽しても悪くなるばかりであった。嘉政さんは頂いた3本のペニシリンを差し出す。断る江藤さんに「わたしの子供たちには私という親がいます。でも、あの少年は悪魔の爆弾で両親を失いました。この薬はあの子のものです」といった。少年は命を取りとめた。大分に身を寄せてから2年、やっと沖縄への船が見つかリ無事妻子の元に8年ぶりに帰国した。その後嘉政さんは一男二女に恵まれ、今はたくさんの孫に囲まれ幸せな生活を送っている。娘夫婦とのスマトラ再訪では村人達の大歓迎を受けた。インドネシヤの小学校の先生であった女性も、ペニシリンで命を助けられた少年も成人してから沖縄にきた。心優しい人には人々が集り助けたり助け合ったりしてお互いに行き交う。平和のよさをしみじみと感じる。

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