2005年(平成17年)6月1日号

No.289

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追悼録(204)

自衛隊武器学校を見学する

  常磐線沿線に住む同期生の親睦の会「常磐会」に特別参加して茨城県阿見町にある土浦陸上自衛隊武器学校を見学した(5月17日)。参加者21名(兵科別に見ると歩兵5、航空12、工兵、機甲、船舶、通信各1)。ここでは武器科に必要な知識や技能を習得させるため教育、訓練を行う。今年は全国から600名の生徒を教育する。7階建ての生徒宿舎があり、生徒達の姿を散見した。戦前には土浦海軍航空隊があった。海軍航空兵力の中核となって大東亜戦争で活躍し、多くの特攻戦死者を出した予科練・海軍飛行予科練習生が学んだ場所である。学校敷地の一角にある雄翔園には7つボタンの制服姿と飛行服の予科練生徒の「二人像」がある。そばに高松宮妃殿下のお歌がある。「海はらに/はたおほそらに/散華せし/きみら声なく/いく春やへし」。高松宮殿下は昭和5年6月、創設された予科練(当時は追浜)一期の中隊長(海軍大尉)であった。教育主任は硫黄島で玉砕戦死した市丸利之助中将である(当時少佐・海兵41期)。彼らが霞ヶ浦湖畔(昭和12年から)で日夜訓練したのかと思につけ、昭和18年から20年にかけて振武台(埼玉)相武台(神奈川)修武台(埼玉)で私たちも文武の道にいそしんだのが思い出される。それだけに死を考えたであろう彼らに親近感が湧く。展示室で38歩兵銃、92式重機関銃と60年ぶりの対面をした。昔の訓練の苦しさがよみがえる。重機関銃の性能には1932年採用、口経7・7ミリ、装弾数30発、射程5000メートルとある。重さは55・3キログラムである。よく分解搬送で重い銃身を持たされ駆け足させられた。歯をくいしばり頑張る外なかった。今は懐かしい思い出である。
 山本五十六元帥の銅像の立つところに予科練資料館・雄翔館がある。予科練で学んだもの2万4千人。そのうち実に8割に当たる18564人が戦死している。戦死者の遺書など資料が展示される。12期甲種飛行予科練習生、清水邦夫さん(20歳・長野県)は昭和20年2月21日神風特別攻撃隊・第二御盾隊として八丈島基地を発進、硫黄島周辺の艦船を特攻、戦死した。その遺書には「私は今より爆弾を抱いて、硫黄島に来襲せる敵艦に対して体当たりを敢行致します。私には何の未練もありません。ただ国家あるのみです・・・」とあった。
 中学校の先生方は、中国や韓国に行かず、むしろ生徒達をここに修学旅行させてはどうか。そんな思いを強くした。

(柳 路夫)

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