2005年(平成17年)4月20日号

No.285

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追悼録(200)

へんこつ隊長・後藤四郎さんを偲ぶ

 へんこつ隊長の異名をもつ元陸軍中佐後藤四郎さん(陸士41期)を偲ぶ会が開かれた(4月14日・九段会館)。昭和20年7月千葉縣佐倉で編成された321連隊の部下29人、満州独立守備隊の部下1人、戦後後藤さんと知り合った人たち30人合計60人が出席した。午前11時九段の靖国会館前に集まり、終戦時、軍命令「軍旗を奉焼せよ」に従わず、、日本陸軍の軍旗の中でただ一つ残った321連隊の軍旗を中心にして記念写真を撮る。軍旗を持つのは後藤さんの長男邦之君である。靖国神社に昇殿参拝したあと、場所を九段会館に移して出席者それぞれに1月20日、97歳でなくなった後藤さんの思い出にふけった。
 独立守備隊当時の部下、元陸軍大尉人見潤介さん(89歳・京都在住)は語る。「教育総監であった真崎甚三郎大将(陸士9期。昭和9年6月から昭和10年7月まで教育總監)から後藤中尉のところに手紙が来たことがある。昭和9年の頃である。当番兵の田中与左衛門さんに『墨痕鮮やかな字であろう』と見せた。大将が満州にいる一介の中尉に手紙を出すのはすごいことだと思う。残っておれば貴重な記録である。昭和17年陸軍報道部に移るが着任の挨拶に「私はこのようなところには不向きな男ですから早く第一線に出してください」とのべたという。それでいて話しはうまくあちらこちらの国防婦人会から講演依頼が殺到した。この当時から女性にはもてた後藤さんでした」
 同じ熊本幼年学校出身で、58期の金子正行さんは『後藤さんが「偕行」誌の健康の秘訣の一つとして毎朝奥さんに「おはようございます」と挨拶することと書いてみるのを見てこれを実行した。初めての時は女房はびっくりして最敬礼をした』と面白い話を披露する。私は15日の朝早速、実行したところわが女房殿は『なにいってんの。早く起きて雨戸の戸ぐらいあけてくださいよ』という。金子さんの奥さんとはえらい違いである。
 私は「へんこつ隊長物語」を毎日新聞から出版したことから縁ができた。昭和56年から北九州市に転勤になったので、長崎在住の後藤さんとはますます縁が深くなった。暴風雨の中でプレーした長崎偕行会のゴルフ会の話しをした。よその組があまりにひどい風と雨のために続々とプレーを中止したのに後藤さんは「弾が飛んできて死ぬ訳じゃあるまい。この程度の雨と風ぐらいで・・・」とゴルフを続行、そして優勝された。その得意然とした笑顔が懐かしい。後藤さんの戦前戦後を写真でまとめてアルバムとして出席者にプレゼントした61期の伊室一義君はアルバムづくりの苦心談を語った。後藤さんと当番兵の田中与左衛門さん、中国人の子供たちが写っている写真がある。田中さんは現在92歳であるが、写真は新兵として独立守備隊に入隊した昭和8年、19歳の田中さんである。初めて見る写真で、70年ぶりの対面であった。子供たちが着ているこぎれいな洋服は後藤さんが満鉄に頼んで社員の家族から送られたものである。戦前の写真は後藤さんの兄三郎さん(故人)の娘さん石井晃子さんの協力で集まったと説明があった。三郎さんは私の剣道の先生、矢川勝義さんが京都の武専時代剣道の手ほどきを受けた師匠である。三郎さんにとって私は孫弟子に当たる。縁は誠に奇しきものである。今後も「みはた会」は続けられることになった。

(柳 路夫)

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