2005年(平成17年)4月20日号

No.285

銀座一丁目新聞

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北海道物語
(2)

「部屋のぬくもり」

−宮崎 徹−

 北陸・山陰の様な地方は亜熱帯雪国と云われ、これに対して北海道は亜寒帯雪国である。雪質の違いは前回に述べたが、より大きな差は寒さの厳しさである。
 明治32年旭川にも札幌からの鉄道が通じ、街づくりが始まってもう50年だ。北海道での暖の取り方は本州と全然異なっている。つまり本州の火鉢・こたつ・囲炉裏などによる部分暖房ではなく、部屋全体オーバーに言うと家全体を暖めている。外は零下も二桁だが室内はプラス20度である。
 開道の頃、本州並みの作りの家に住んだ移住者は、すき間風が運ぶ外気の寒さに苦しんだ。室温が氷点下20度以下では、布団には寝息による”襟霜”が出来て目を覚ます。赤児が凍死した例も多かったという。板を張り、莚(むしろ)を下げて風雪を防ぐ。幸いに身近な原始林の木を伐採して燃料にして寒さを防いだのである。
 初期の屯田兵と家族との生活の写真では、舎屋の周辺に生木を伐ってうず高く積み、乾燥して薪として貯えている光景が見られる。此の薪の上を冬眠前の羆が飛び越えたという伝えが旭川の近村に有り、羆は決して鈍重ではなく飛躍する獣だと驚くと共に、そういう原始の寒地を現在迄に開拓出来たのは、森林資源のお蔭とも思えるが、更には石炭の果たした役割も忘れられない。
 古い全国地図を見ると、裏日本や四国にはまだ鉄道が無い明治初期。すでに小樽から滝川へ、また支線として夕張まで鉄道が敷かれている。炭山から小樽港へ、更に本州へとの『石炭の道』だったのである。明治初年のこと、小樽の寺院建築用の木材伐採のため、今の三笠市幌内の山に入った業者が持ち帰った黒い石塊が、実は高品質の石炭と判って、北海道開拓の主目的の一つが採炭事業となった。それ以来、鉄道・電力・製鉄など、日本のエネルギーのために北海道の石炭は大きな役割を果たしてきたが、特に戦後には家庭の燃料としても薪以上に有効だった。
 その時期北海道の会社では、社員には冬に入ると石炭手当がボーナスとは別に支給される。所帯主には中クラスの石炭5トン程度と記憶する。薪に比べて石炭ストーヴは逐次改良され、火力の工夫だけでなく、投込式という朝まで人手無しで燃える長時間のものも出来たので、夜通し室内は適温ですごせるようになった。
 会社ではストーヴの上に盥の様な湯入りの容器を置いて、加湿器の役目に兼ねて一升瓶を入れてお燗し、零下15度の街を外廻りしてきたセールスマンに一杯飲ませる。もう戦後ではないと昭和30年の経済白書でうたわれた復興が、十年位遅れて旭川にも来ていた。
 ただ石炭ストーヴでは多量の燃殻が出る。煙突に煤が付着し加熱されると火事の原因になるので、煙突掃除は十日に一度は行い、石炭の燃殻はその都度廃棄しなければならない。家の前の除雪と共に、これが男の冬の役割となる。最近の亭主のゴミ出しの面倒のレベルではないのである。
 エネルギー革命で微粉や沈粉を使っていた工場のボイラーが重油ボイラーに変り、家庭も石油ストーヴ、ガスストーヴにかわる以前の牧歌的なはなしである。

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