2005年(平成17年)1月10日号

No.275

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追悼録(190)

東京裁判でただ一人の文民の法務死

 東京裁判で7人に死刑が宣告されて巣鴨刑務所で処刑された(昭和23年12月23日)。そのうち文民は元首相の広田弘毅さんただ一人であった。他の6人は軍人である。ここにも東京裁判の杜撰さを垣間見ることができる。
 東京裁判では太平洋戦争だけでなく、昭和3年以来の日本の政治、政策が戦争犯罪を構成するとして起訴した。弁護人清瀬一郎さんの著書に寄れば「1928年(昭和3年)ごろより被告ら全部が東亞制圧の大きな計画を夢み、共通の計画、準備、実施を遂げんとした東亞の天地をおおう雄大至極な一大戯曲の役者であったのだと起訴し、後に裁判所も一部は制限したが、大体においてこの絵図を承認した」という(「秘録東京裁判」中公文庫)。
 何故、検事側が昭和3年1月1日を共同謀議の初めとしたのには理由がある。田中義一首相の満蒙にたいする積極政策に関する「上奏文」があったからである(昭和2年7月22日)。それによれば「農鉱森林等の豊富なること世界にその比を見ず.よってわが国はその富源を開拓し、帝国永久の繁栄を培養せんと欲し・・・」とある。これを日本の侵略の基本計画であり、その始まりと見たのである。ところが、この上奏文が偽ものであった。あわてた検察側が探し出してきたのが広田弘毅首相時代に決定した「国策の基準」であった(昭和11年8月11日)。この国策の基準には東亞大陸で日本が地歩を確保するために国防軍備の整備、満州国との提携、外南洋への進出、外交方策の根本方針などに触れている。「これこそ日本の侵略の意図を表現したもの」として、その主唱者が時の内閣の広田首相であると検察側はみた。広田さんにとって不幸であったと言うほかない。裁判に臨んだ広田さんの態度は終始見事であった。罪状認否でも「総理大臣であったのですから私に責任があります」と「有罪」を申し立てようとして弁護人をてこずらしている。
 処刑の前、広田さんは板垣征四郎大将(陸士16期)木村兵太郎大将(陸士20期)とともに花山信勝教誨師の読経を聞き、焼香を済ませ葡萄酒を飲んだ。花玉教誨師にきかれて「ご覧の通リ身体には異常がない。ただ健康で黙黙として死についていったという事実をどうかお伝え願いたい」と家族へ言い残している。享年70歳であった。

(柳 路夫)

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