毎日新聞社会部で一緒に働いた佐々木武惟君がなくなった(12月5日享年81歳)。三月の社会部OB会であったのが最後であった。その時は顔色もよく毎日1万歩を歩いていると元気であった。ところが、6年前に肝臓を患い、前後16回の入退院を繰り返したが家族以外誰にも知らせなかった。死顔を見せたくないので誰にも知らせるなというので近親者のみで葬儀を済ませた。仕事一筋、稀に見る事件記者であった。昨年12月、毎日新聞の同人誌「ゆうLUCKペン」で「思い出の全舷上陸の日」で佐々木君に触れて一文を書いたので再録する。彼への鎮魂の文とする。
その日の朝、バッグに着替えを入れて家を出た。会社に着くと、間もなくデスクの佐々木武惟さんがすまなそうな顔をして「これから狭山へ行ってくれんか。殺しだ」という。
警視庁キャップから遊軍長になったばかりであった。職責上朝10時には社会部に出るように心掛けていた。前夜マージャンで遅くなっても、頑なに10時出勤を守った。佐々木デスクとは警視庁記者クラブでともに一課を担当した。戦後の事件記者としては彼の右に出る者はいないであろう。夜討ち朝駆けの穴場づくりがうまかった。たとえば、こんな話を聞いた。あるデカさんの家を訪ねた。一升びんをぶら下げていったが、受け取らなかった。するといきなり玄関先にその一升びんをたたきつけた。「俺の酒が飲めないというのだな」と捨てセリフを残して引き上げた。それが縁でその後は仲良くなったという。真偽の程はわからない。一ヶ月連続55本の特種を連発したのは事実である。恐らくこの伝説的な記録は今後破られないであろう。先輩には事件の鬼といわれる記者が少なくない。大正末期、警視庁記者クラブに楠本義郎さんがいた。楠本記者は刑事と競争して犯人を捕まえようとした。事実警察より早く犯人の居どころを突き止めたこともある。この記者の悪い癖はあまり事件に深入り過ぎて、原稿にしないことであった。そのため、しばしば他社に報道では先んじられたといウソのような本当のような話が伝わっている。
浦和支局からの一報ではこの日の朝、狭山市上赤坂、農業、中田栄作さんの四女、川越高校入間川分校別科一年生善枝さん(16)が同市入間川の農道でやく殺されて発見された。
善枝さんは三日前、学校から帰宅せず行方不明であった。さらに犯人は中田さんから身代金20万円を取ろうとして失敗していることもわかった。警察は犯人を目の前にして取り逃がす醜態も演じている。のちに冤罪事件として騒がれた「狭山事件」の始まりであった。狭山の現場には田中久生君を連れて行った。田中君を選んだのには理由がある。戦争中ともに陸と海の違いがあっても軍の学校に学んだという近親感があったほか昭和28年7月22日白山丸で帰国したモンテンルパの戦犯取材で苦労した思い出が深く刻み込まれていたからである。戦犯111名を乗せた白山丸は当日の朝、横浜港外に停泊した。各社は船をチャータして白山丸に殺到した。船からおろされたタラップは検疫官が乗船するとそのまま無情にも引き揚げられてしまった。船にあがる手立てがない。すると田中記者が船首を指差し「あそこから船に登りましょう」といった。みれば船腹から船首にかけていくつかの取っ手がついている。さすが海軍経理学校で鍛えられた男である。この朝、港外は天気晴朗なれど波高く、チャータ船は揺れに揺れた。毎日の取材陣は勇をこしてそこから上る。取っ手から取っ手へ背をくねらせてあがっていかねばならない危険なものであった。一歩踏み外せば海へ転落する。私も必死の思いをして登った。あとに続く社はなかった。これを舷側でみていた戦犯の人達は「よく来てくれた」と快く取材に応じてくれた。一番のりした橋本保治カメラマンは写真を撮りまくった。何はともあれ社会部記者は現場に早く着かねばならない。この取材を我々は「白山丸・横浜沖海戦」と呼んだ。
その日から狭山に取材本部が設けられた。田中記者を連れて行ってよかった。事件発生後23日目に石川一雄容疑者が逮捕されるのだが、石川容疑者には中学生の妹がいた。その妹は兄が捕まってから学校に行かなくなった。心配した学友達が「別に貴方が悪いわけではない。今学校にこないと、学校に行きづらくなる」と通学を進めた。妹は友情に支えられて学校に行くようになったという。新聞はこれまで容疑者側に同情する記事を避けるのを不文律としてきた。田中記者はあえてこれを記事にした。私は胸を衝かれた。良い記事であった。「これは記事になる」と判断して出稿した。佐々木デスクの話では整理部と多少もめたが紙面化することになった。異例の事ながら夕刊の社会面のトップを飾った。こののち石川家は毎日の記者が取材に訪れも快く応対してくれるようになった田中君とともに狭山に行かされたその日は昭和38年5月4日であった。楽しみにしていた年に一度、社会部の全舷が熱海で開かれるその日であった。
(柳 路夫) |