安全地帯(95)
−真木 健策−
山間地農業の思い出
山合いの谷間に段々畑のように開ける棚田はいまや手付かずで、草がぼうぼうと生え放題である。往年の青々とし、重そうにたれる稲穂の姿は全くみられない。長野県は飯田市郊外の山村で少年時代、いまはなき父と二人で農業をしていた頃、家から斜面の畑を下った棚田で稲作に精を出した。刈り取った稲を背板に背負い、100メートルほど斜面を登って家の周囲の稲は座にかけて干したのを思い出す。
父は終戦直前、朝鮮から引き揚げてきた。予備役大尉で、京城で学校の配属将校をしていた。引き揚げる途中、輸送船が撃沈されて多くの荷物を失った。「これは持って帰った」と軍刀と6連発のピストルを見せた。二つとも今はない。
飯田の山奥に家を建てたのは昭和22年ごろで、丸石を柱の土台にして太い松の木をハリに使い、玄関先の部屋にいろりを設けた平屋であった。北側の土手には風除けのためにヒノキの苗が植えられた。電気はなくランプであった。畳もなく床にゴザを敷いた。水は100メートル離れた下の山会いの水田の湧き水であった。天秤棒に二つのバケツを担いでの水運びは大変な苦労であった。標高650メートル、遠くに駒岳の山々、飯田市街地が望め見晴らしはすばらしかった。
家の裏側にはウサギ、ヤギ、ニワトリなどを小屋を造って飼った。草を刈ってきて、エサとして与えたりヤギの乳をしぼったりした。軍人から食うために農業に転じた父も百姓生活33年の昭和53年1月、89歳でなくなった。
この地区も若者は離村。少子・高齢化が進み一人暮らしや老夫婦の家庭がほとんどである。廃屋になったところもある。村では観光リンゴ園、ビニールハウスの観光イチゴ園などで活路を見出している。
兄貴夫婦が跡を継いだが、二人の子供は外へ出てしまい「農業も俺一代で終わりだ」といっている。その兄も80を越えた。 |