2004年(平成16年)10月10日号

No.266

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追悼録(181)

自決した銕尾少佐夫妻を偲ぶ

  同期生の霜田昭治君から昭和47年8月21日付けの毎日新聞のコピーを頂いた。すでに30年も前のものである。見出しは「少佐夫妻の自決―27年」とあった。その記事によれば終戦の4日後本土決戦の最前線といわれた九十九里方面の防衛の任に当たっていた兵庫出身の若い陸軍少佐夫妻が自決した。それから27年目の20日、夫妻の慰霊観音像がある千葉県印旛郡四街道町鹿放丘(かほうがおか)の真言宗・宥妙寺(野村宥徴住職)にかってこの銕尾隆少佐のもとで青春をすごした旧陸軍予科士官学校第4中隊第1区隊のメンバー26人(区隊の全候補生39人)が集り追悼の集いを開いたとある。テレビの司会者として活躍した同区隊の八木治郎君(故人)も参加している。
 銕尾少佐は昭和18年4月、私たち59期生が入校した時、第4中隊1区隊長であった。当時の階級は大尉で陸士51期生であった。24個中隊の中で51期生の区隊長が13名いた。私のいた23中隊1区隊の区隊長も51期生の福田大尉であった。昭和19年2月航空兵科の決定があったあと間もなく前線に出られ、沖縄で戦病死されたと聞く。生徒の訓育に直接影響を与えるのは区隊長である。予科の区隊長は人格者が揃っていた。福田区隊長も温厚で厳格な方であった。とりわけ演習は厳しかった。それでも温かな人柄は候補生たちを信服させるものがあった。恐らく、銕尾区隊長はそれに勝るとも劣らない人格者であったのであろう。
 保存版「陸軍士官学校」(昭和44年9月発行)に「比翼の観音像」として銕尾少佐夫妻が紹介されている。終戦とともに連隊は下志津に集結することになり少佐に大隊も下志津廠舎に向かい行軍を開始した。少佐は汽車で連隊本部に先行し、一切の事務を終り自宅に帰って夫人を伴い、下志津廠舎に近い丘で部隊の通過を待った。やがて闇の中を部隊は粛々と進み、廠舎のなかに吸い込まれた。これを見送った夫妻はかねて申し合わせたとおり対座して身を処した。少佐は古式による割腹。白装束の夫人は拳銃による自決。8月19日未明のことであった。時に少佐27歳、玉喜夫人23歳。少佐に嫁して僅か1年半であった。
 昭和20年8月19日といえば、59期の地上兵科は神奈川県座間の相武台にあって戦争継続か承詔必謹かで騒然としていた。隣接の厚木海軍航空隊は「徹底抗戦」のビラを空から散布した。全国の陸軍部隊から陸士はどうするかの問い合わせもあった。日課的には午前、兵器検査。富士の野営演習から帰ってきたばかりであるので当然の検査であるが、軍規を引き締める意味があったように思われた。午後。第七中隊長村井頼正少佐(49期)による終戦の大詔、陸海軍人に賜わった勅語の奉読式、陸軍大臣訓示の伝達式があった。
 27歳にして「武人としてご奉公至らざりしを、一死を以って報いん」とした少佐の心情に、強く打たれるものがあり、尊敬すべき先輩を持ったと思う。私が27歳の時は、毎日新聞の駆け出し記者で、警視庁記者クラブにいて事件の取材に飛び回っていた。
 「陸軍士官学校名簿」によると51期生の自決者はこのほか、福井寛少佐(昭和20年11月19日、伊豆大島乳ヶ崎高原で自決)、穂積馬佐雄少佐(昭和20年9月9日、京城で自決)がいる。

(柳 路夫)

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