2004年(平成16年)5月20日号

No.252

銀座一丁目新聞

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安全地帯(76)

−信濃太郎−

ポーランドと小野寺信少将の素晴らしい情報活動
 

 ポーランド共和国駐日大使館公使、ヤドィヴガ・マリア・ロドヴィッチさんの講演を聞く機会があった(5月13日・アルカディア市ヶ谷)。講演前に会場に「ポーランド回顧」の曲が流される。陸士の予科時代、時折歌った懐かしい歌である。日本語が堪能な公使は8番までそらんじているという。明治26年2月、ベルリン公使舘付武官の任を終えた福島安正中佐(のち大将)がシベリアを横断、途次、蒙古ー満州まで踏査した。この歌はポーランドを通過した時の感想を述べたもので、落合直文が作詞した。「淋しき里に出でたれば/ここは何処と尋ねしに/聞くも哀れやその昔/滅ぼされたるポーランド(4番)」亡国の悲哀が良く出ている。
 ポーランドは第一次大戦後の1918年独立を果たす。その前の1772年から三次のロシア、プロイセン、オーストリアよる分割で滅亡した。福島中佐が訪れた時は独立する25年も前であった。独立を目指して何度となく蜂起を試みたが失敗した。「かしこに見ゆる城の跡/ここに残れる石の垣/照らす夕日は色寒く/飛ぶも淋しやシャコの影(5番)」
 1939年9月ドイツ軍が宣戦布告なしにポーランドへ侵攻さらにソ連軍も同国に侵入国土の東半分はソ連に併合された。アウシュヴィツだけでも百万人以上のポーランド国民が虐殺された。日本がアメリカと戦争状態になった1941年12月、ポーランドのロンドン亡命政府は日本に宣戦布告した。だが水面下では日本・ポーランドの諜報協力は続いた。ポーランドに必要なのは対独、対ソ連の情報であった。スウェーデンの日本大使館の駐在武官であった小野寺信大佐(後に少将・陸士31期)がポーランドの亡命政府筋や祖国が滅亡したエストニア軍部の将校達を活用して諜報活動に大きな成果をあげた。ヤルタ会談での「ソ連はドイツ降伏より3ケ月後に対日参戦する」の密約を東京に打電したのは余にも有名である。たとえば1941年4月ベルリンで開かれた在欧陸軍武官会議でドイツが英本土に上陸するかそれともソ連を攻撃するかが問題になった。全員が英本土上陸を主張する中で小野寺さんだけがソ連を攻撃すると確信の程を披露した。参謀本部もこれを信用しなかった(小野寺百合子著「バルト海のほとりにて」共同通信より)。事実それから2ケ月後の6月独ソ戦が開始された。また1943年(昭和18年)の暮れ頃、ハンガリーの武官から「ドイツで原子爆弾の研究が進んでいる」と知らせてくれたので「原子爆弾は戦争の将来を決するものと思われるから十分注意するよう」と東京へ打電している。ドイツ側は目下研究中ということで詳しくは教えてくれなかったという(前掲の書より)。この情報は重大である。当然アメリカも原子爆弾の研究開発を進めているはずである。「昭和20年7月16日ニューメキシコ州で新しい実験が行われた」という僅か2行の外電の意味を、情報のエキスパートなら原爆の完成と知ったであろうと思う。小野寺特電が生かされなかったのは残念である。
 公使はポーランド人は非常に親日的である。5月にはE Uに加盟してこれから大きく発展する。日本企業も進出するなら今がチャンスであると強調した。

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