同期生の高橋章次君が死んだ(2月11日)。昭和18年4月、59期生としてともに埼玉県朝霞にあった陸軍予科士官学校に入校、23中隊1区隊に配属になった仲間の一人である。昨年9月26日、帝国ホテルで開かれた入校60周年全国大会で顔を合わせたのが最後の別れとなった。区隊幹事の赤井英夫君のところにきた今年の1月26日付のハガキには体調を崩し、検査のため入退院を繰り返しているとあった。病名は大腸がんであった。春一番が吹いた14日、神奈川県保土ヶ谷で開かれた告別式には同じ区隊では赤井(歩兵)鈴木七郎(航空)田中長(航空)深川忠興(航空)牧内節男(歩兵)が参列した(井下武厚は通夜に出席)。この他同期生が大勢が出席した。挨拶にたった長女の伊藤尚子さんは「国のために尽くすと陸軍航空士官学校に入った父は敗戦でその志を遂げられませんでしたが、戦後は慶応大学を出た後第一勧銀に入り、企業戦士として立派に勤めを果たしました(勧銀のあと昭和54年から富士通の子会社の常務となり平成6年まで務めた)。父は争いを好まず、穏やかな人でした。だから父の周りはいつも穏やかな雰囲気に包まれました。このような父を私は誇りに思っています。2月11日の建国記念日に死んだのも父らしいと思います」と語った。高橋君らは昭和19年3月17日予科を卒業、10月卒業の地上兵科とわかれて、修武台の航空士官学校に行った。区隊から21名が航空へすすんだ。59期生全体では1600人を数える。振武台の予科生活は1年間であった。お互いに切磋琢磨した。軍歌演習をし、声を張り上げて号令調整もした。日夜練武に励んだ。9月13日乃木祭を卜して同期生大会を開き「我等同期生は死生相結ぶ心友なり。骨肉の情誼を致し、苦楽を共にし、切磋砥砺、誓って皇軍団結の楔子たらん」と誓い合った。内地では空襲が激しいため満州で操縦の訓練をすることになり昭和20年4月下旬渡満。翼源隊として平安鎮飛行場に赴いた高橋君らはここで4式練習機(キ84)で飛行演習をはじめ、一ヵ月後には単独飛行するまでになった。7月には空中衝突で同期生2人が殉職する事故に見舞われた。8月には99式高等練習機の操縦、四式練の特殊飛行などに移った。戦局は悪化するばかりであった。8月9日ついにソ連軍が満州国境を侵攻する。翼源隊中隊長、帖佐宗親少佐(50期)の転進の指揮は見事であった。候補生たちに次のように訓示した。「候補生諸氏は戸頃少佐(憲一・53期)の指揮に従って行動せよ。前途には困難があろう。頑張れ。中隊長は最後に当地を出発する。万一のことあらんも中隊長の武人的最後
に関しては心配無用なり」。このころ、歩兵の私達は西富士演習場で卒業前の野営演習中で、広島に新型爆弾が落とされてもソ連軍が侵攻してきても挺進奇襲の夜間教練に精を出していた。
8月15日敗戦、志は挫折した。、在満の士官候補生に対して、徳川好敏航空士官学校校長(陸士15期)から「全員万難を排してして修武台に帰還せよ」の命令が出された。帰国途中、ソ連軍用機の爆撃で2人が戦死、数十名がシベリアに抑留されたが、翼源隊の候補生たちは鮮満国境の安東、釜山、博多を経て全員無事帰校した。復員する前、徳川校長は「これからは剣を筆に持ち変えて何が何でも勉強するのだ。それが日本再建の道につながるのだと思え」と最後の訓示をした。満州を含めて一年5が月の航空士官学校の生活が高橋君に与えて影響は大きい。常に「死」を考え、現実に「死」と直面した日々であった。徳川校長、帖佐中隊長の教えを胸に、思いやりのある人間味豊な人間に成長し、高橋君が周りを常に温かくさせたというのは嬉しい限りであった。享年77歳。
(柳 路夫) |