2004年(平成16年)2月1日号

No.241

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
お耳を拝借
山と私
GINZA点描
銀座俳句道場
告知板
バックナンバー

競馬徒然草(4)

―思い出のタケホープ― 

  JRA50周年を迎える今年は、数々の記念行事が企画されている。その1つに、かつての名馬の名をつけたレースが組まれている。その1つが1月24日、タケホープメモリアルとして中山競馬場で行なわれた。距離は1600メートルで、長い距離を得意としたタケホープにふさわしくないが、レース名から名馬を想起させることで、1つの意味はあると思われる。
 タケホープは、73年(昭和48)、ダービーと菊花賞を制し、クラシック2冠に輝いた馬である。その年は、ハイセイコー人気で沸いた年だったから、ダービーの行なわれる時点では、タケホープはハイセイコーの影に隠れた存在だった。元々ハイセイコーは公営競馬の馬で、大井で6戦全勝。鳴り物入れで中央入りした。ハイセイコーを一目見ようと、多くのファンが競馬場に詰めかけた。「アイドルホース」という言葉も生まれた。ハイセイコーは皐月賞で圧倒的な1番人気になり、その人気に応えて勝った。そこでさらに人気を高めた。子どもまで「ハイセイコーの名を知らないものはない」と言われたほどだった。
 「競馬の大衆化」がいわれるようになったのは、その頃からである。それまで競馬は、とかく変にギャンブル視され、ファンは肩身の狭い思いをしたものだった。電車の中でも、競馬の専門紙はおろかスポーツ新聞の競馬欄も、大っぴらに読むのが憚られたほどだった。競馬はまだ「市民権」を得ていなかった。それが次第に「市民権」を得るに至るのだが、そのきっかけを作ったのは、ハイセイコーの登場からだ。その意味でも、ハイセイコーが果たした役割は大きい。
 さて、タケホープである。2歳(旧3歳)時は7戦1勝に過ぎず、皐月賞も熱発で出走を回避している。そしてダービー。もちろん1番人気はハイセイコー。タケホープは27頭立ての9番人気だった。それがレースでは、4コーナーで徐々に追い上げ、直線で先頭に立ったハイセイコーを、あっという間に抜き去って優勝した。2着はイチフジイサミで、ハイセイコーは無残にも3着に敗れた。距離が延びてよいタイプのタケホープが真価を発揮したのに対して、ハイセイコーは距離の限界を暴露した形となった。タケホープは秋の菊花賞にも勝ち、2冠馬に輝いた。ハイセイコーは、菊花賞でもタケホープに敗れた。2冠を制したタケホープは、その年の栄えある年度代表馬にもなった。
 「競馬の大衆化」をもたらすきっかけとなったハイセイコーの功績はそれとして、「距離延びてよいタイプ」と見て期待したタケホープが、期待に応えてくれたことで、タケホープは忘れ難い。ついでに言えば、ダービー2着に食い込んだイチフジイサミ(12番人気)も、距離延びてよいタイプの馬だった。だが、いわゆるズブイ馬で鋭さがなく、スタミナはあるが勝ち切れないといった感じだった。それがダービーで、人気のハイセイコーを交わして2着に食い込んだ。タケホープの単勝は51.1倍、連複は95.6倍の大穴だった。波乱の立役者となったタケホープが、無名の脇役を引き連れて、大舞台を演じた。タケホープは名優だった。

( 新倉 弘久)

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。(そのさい発行日記述をお忘れなく)
www@hb-arts.co.jp