花ある風景(155)
並木 徹
察廻りの友また楽しからずや
毎日新聞東京本社は昭和23年の春、警察廻り制度を復活するに当たり10名の新聞記者を採用した。それから55年、なくなった3人を除いていずれも卒業して、ともかく第二の人生を歩んでいる。時々思い出したように「察廻りの会」を開く。今年は1月26日に銀座のレストランで開いた。集ったのは4人。ここでは昔の事件の秘話が思いがけなく聞ける。高橋久勝君(80)。昔から弁舌爽やかであったが、この日も一人で喋り捲っていた。高橋君は13期海軍予備学生で爆撃乗りである。昭和18年9月13日に
土浦航空隊に入隊した。この年の4月に陸士に入学していた私はこの日を良く覚えている。乃木大将夫妻が自刃された命日(大正元年)で、乃木祭を卜して、同期生会ができた日だからである。昭和19年1月7日に
偵察と偵察に別れ、彼は偵察になった。13期の予備学生5000名の同期生のうち1800人が戦死している。俳句をたしなむ高橋君はこんな句を残している。「人日や彼我操偵の別れ酒」 「戦友の二人となりし十三夜」
私たちにとって忘れがたいのは下山事件(昭和23年7月6日)である。4人とも事件の取材にあたっている。国鉄総裁下山定則さんが常磐線で轢断死体で見つかる前に五反野南町の旅館で休息した事実を見つけてきたのが高橋君である。まさに世紀の特種である。常磐線の列車に飛び込む前まで下山さんは単独であったというのは自殺を裏らづける有力な証拠であった。他社は他殺説にこだわるのを毎日新聞のみが自殺説を鮮明にしたのは旅館での休息、現場での17人の目撃者などから下山さんは死ぬ直前まで一人であったという事実からである。高橋君の活躍ぶりについては毎日新聞編「20世紀事件史『歴史の現場』」に詳しい。
意外なことを聞いた。事件後、高橋君に警視庁から『警部補で採用するから刑事になりませんか』と言う打診があった由。当時の平正一デスク(故人)はその場で断ったという。
吉田掟二君(78)は警察官の非行をものにするのが上手かった。警官の強盗事件、経済事犯など警察が隠したがる事件を報道した。ともかく上野署の記者クラブに6ヶ月も寝泊りしたり、警察官と一緒に風呂に入ったりして警官と親しくなる術を身に付けていたから当然といえば当然である。さらには警察署の交換台で外部からきた電話を取り次ぐ電話番までしたというから驚きである。昔のおおらかな時代の話である。
平野勇夫君(80)。察回り記者の中で一番頭の切れる男であった。平デスクが何かあると平野君を指名して仕事をさせた。ニューヨーク特派員もやり、今では翻訳を業としている。ヘンリー・ダイア−著「大日本」(実業之日本社)など訳著が多い。この日も仕事があると途中で退席した。
筆者といえば、戦後間もないことなので冬などは毛布で作ったハーフコートを着てボロボロの靴を履いて、真面目にコツコツと警察から警察に回った。それでも下山事件の現場に一週間、三鷹事件(昭和23年7月15日)の現場に一か月もいかされて取材したのがよい勉強になった。大事件は記者を育てる。後年、「児玉番我れよりつらし雨の日」の句が生まれる(昭和51年ロッキード事件)。4人とも横着者なので次の察廻りの会がいつになるかわからない。最近の句を掲げる。「半歩づつ歩む人あり冬の朝」 悠々 |