2004年(平成16年)1月20日号

No.240

銀座一丁目新聞

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茶説

イラク派遣自衛隊の武運を祈る

牧念人 悠々

 いよいよ陸上自衛隊がイラクへ行く。戦後初めての海外派兵である。戦後58年間、日本は海外で一人の戦死者も一人の負傷者も出していない。憲法9条で国際紛争解決の手段として、武力行使を放棄しているからである。今回はイラク復興支援措置法によって浄水、給水活動や施設・医療支援活動などのために派遣される。けして戦うためではない。非戦闘地域での活動と言いながら、それは言葉のあやであって現実はイラクは全域が戦闘地域である。常に最悪の場合を覚悟をせざるをえない。駐屯地の サモワはオランダ軍の治安担当区域であるからオランダ軍に任せればよいというものではない。自分たちの身は自分たちで守るべきであるという気概がほしい。。
 日本の軍隊が初めて海外へ派遣されたのは明治7年(1874年)5月である。陸軍中将西郷縦道が台湾事務都督となり士族兵3600名(一旅団)をつれて出兵した。直接の理由は台湾で琉球漁民が虐殺されたからである。背景には清国との間に琉球の帰属問題があった。それにしても一人の漁民の死が出兵の原因になるのである。北朝鮮の工作員による拉致も明らかに出兵の原因になる。平和憲法の手前、国際紛争解決としての武力行使がダメと言うなら、経済封鎖は当然であろう。
 台湾出兵により清国との関係が悪くなった。開戦を覚悟して政府は「支那征討勅令」を準備し、進軍大條例、宣戦発令順序条目を定め、在野の西郷隆盛、木戸孝允、板垣退助への召命による政府部内の統一強化を策した。在野も含めて世論の統一を図ったわけである。幸い大久保利通の対清談判で北京条約が成立し、日清開戦の危局は回避された。これにはイギリスの駐清公使トマス・ウエードのによる仲介があった。当時日本は軍隊の創制期で陸海軍二省を置いたのが明治5年2月、徴兵開始が明治6年3月である。それでも海軍には2隻の甲鉄艦があったのに対して清国には木造艦しかなかった。また、野津道貫大佐(明治4年7月少佐のちに元帥・鹿児島)、桂太郎少佐(明治4年7月大尉のちに大将・山口)の二人は研究して「不十分ながら北京攻入の準備もほぼできた」という(近代日本戦争史第一編・日清・日露戦争より)。この年の12月に撤兵した。戦病死者573名を出している。このときは単独出兵であったが、政府部内の統一、万一の時の準備、外交努力、外国との協力等我々が学ぶべき点が少なくない。先人たちはこうして難局に対処した。
 自衛隊派遣は復興人道支援である。その目的をあくまでも貫徹すべきである。自爆テロやロケット砲による攻撃は避けにくいが、住民を巻き込んだ防衛網を張り巡らすほか被害を最小限度に食い止める方法はないであろう。第二次大戦中、中国東北部の後藤四郎中尉(陸士41期・長崎市在住)は駐屯地で現地の子供達を集めて学校を開き、兵営の浴場を住民に開放して住民の民生のために尽くした。このため後藤中尉の兵営は匪賊から襲われたこともなく、逆に住民が貴重な情報を知らせてくれたという。要は前線の指揮官の統率の妙である。
 国がなすべき事は報道管制(1月20日号「安全地帯」参照)などという瑣末な事ではなく、イラクを自由な国にするため日本としてできることはなにかと言う大きな戦略である。6月にイラクへ主権が委譲されてからのイラクの国づくりなどの問題が山積している。下手をすると内戦になる恐れもある。復興人道支援は単なる自由にしてな民主的な国建設への橋渡しに過ぎない。今後とも日本外交の活躍できる舞台も多いはずである。とりあえず、派遣される自衛隊の武運を祈念したい。

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